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ソーシャルディスタンス

2019年の冬に初めて台湾で一人アパートを借り住むようになったところから、日本と台湾の滞在を繰り返し、気がつけば今まででトータル大体1年分くらい台湾で生活を送ってきた。そして人と出会ってきた。

台湾での生活、そして活動の中で、得た事、感じた事を一言でズバって伝えるなんて事はまず無理。
それくらいこの日々の中で多くを体験できたのは本当に幸せなことだと思います。

そして、自分の想像を遥かに超えるくらいに
物事の捉え方が大きく変わった事だけは間違いない。

そりゃもちろんこんなに色んな部分において日本と文化の違う場所で生活していると、見えてくるものは多くある。

というかこれまでの人生の中で見えてなかった部分が多くあった事に気づかされた。
というほうが正しいかも。

その中で一番感じたこと。
それは、人との距離感。

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これに関しては、やっぱり大きく違う。
ざっくり言うてしまえば、
台湾人はとにかくオープン!ってことなんやけど、
日本人は改めてこの距離感というものに重きを置き人間関係を構築しているんやなって感じるようになった。もちろん自分自身も含めて。

もっと言えばこの距離感ってのをちゃんと計れる人こそが所謂「空気の読める人」であり、
お互いを分かりあう上での物差しになってるようにも思う。

でも、こちらに暮らす人々は違う。

いる、いらない。
したい、したくない。
好き、嫌い。

これをめちゃくちゃ明確に伝えてくる。

つまり周りくどさが全くない。

反対に、自分含め日本人はどうやろう。
すごく曖昧な言い方をしている事が多々ある。

僕もいまだにですが、
少し日本語を話せる台湾人に指摘される部分というか、突っ込まれる言い方をしている事が多々ある。

例えば、

台湾人『これいる?』

僕『あー、大丈夫』

台湾人『は?どっち?』

僕『あ、いいかも』

台湾人『"いい"というのは要らないと言うこと?それとも良いやんそれ的なこと?』

僕『えー…』

台湾人『要(ヤオ)、不要(ブーヤオ)、どっち?』

僕『…ブ〜ヤオ』

なんか面倒くさい人をテーマに書いたそんなおもろない漫才のネタみたいでしょ?このやり取り。

ただ、文字におこすと、
ちょっと面白いなぁって思ってしまう。

こんな何気ない部分にしても、
自分にとってはある意味衝撃だった。

でも、所謂このはっきり言わない"曖昧"を瞬時に感じ取りながら相手を見て人間関係を構築しようとするのが日本人。というか日本人くらいなんじゃないのかなとも思うようになった。

言葉の裏に隠されている相手の感情や、表情を読み取る事こそが大事、みたいな。
もちろんそれが美しさでもある。

自分は日本人として生まれて、ずっと日本で生活してきているのだからこの部分は別に変える必要のない部分で、
むしろ大切にしていかないとあかんやろ〜くらいに思っていたし、無理くり変える必要なんてない!くらいの感じだった。

でも、こっちで1年間生活してみて

この 『距離感』

これを大きく見つめ直さなければ、
現地の人達とは深く関わり合えない事に改めて気付かされる事がよくある。

逆に言えば、、

この部分を取っ払ってしまえば

一気に友が増える。

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友が増えると言う事は、
つまり中国語を話す機会や、
聞く機会も自然と増える。

そうすればこれまた当然言語も上達する。

僕は台湾に来る前にこっちのひらがな的な存在にあたる注音符号っていう、見た目がなんか古代文字みたいなものを時間を見つけては毎日勉強していました。

「ㄅㄆㄇㄈㄉㄊㄋㄌㄍㄎㄒㄓㄐㄑㄖㄗㄕㄙㄧㄘㄩㄚㄛㄨㄝ…」

なんかどちらかというと、、
中東っぽくないですか?笑

移動中とかもこれをノートにブワー!って書き続けてるちょっとヤバそうな自分を、周りがどんな目で見ていたかは今では大体想像がつきます。

でも結果的にこれやっといてほんまに良かった。
発音の為にね。

今ではこれを使ってスマホで中国語を入力し全てやり取りをしているんですが、

最初の頃は「你好」

この二文字を入力するのに何分かかってたやろ。

入力の際は「ㄋㄧˇㄏㄠˇ」

こう打って初めて文字上で

"こんにちは"

を言うことができる。

あとはとにかく中国語の資料とか、教材を探しまくり買い漁った。
これまた日本で買うと高い!!

ペラッペラの教材が平気で5000円とかした。

で、それを何十冊も買って、
ちょっと読んで、
ノートに書いて、
ペラペラー!ってめくって、

それから一度も見てない。(おいっ)

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最初にこちらに住む時は一応その教材を全て持ってきてたので、多分飛行機の受託手荷物の規定重量のおよそ半分くらいはその教材の重さやったと思います。

それなかったらあと何枚パンツ入ったやろ。

話を戻します。

今まで勉強してた事はもちろん大事です。
ちゃんと後で活きてくるというか、、
答え合わせになる。
だから間違いなく努力した事はやっぱり裏切らないと思います。

でもある時からこう感じるようになりました。

"毎日"使わなければ意味がない

つまり"毎日"使わないといけないと言う事は、
日々の生活の中で、毎日これを使える相手がいないと絶対に成長しないという事。

そして、もっと掘り下げてくと、

毎日使わなければいけないほどに
日本語が話せない人達と日頃から関わってなければいけないということ。

で、さらに話を戻しますが、
その為に必要な事がまず
今までずっと必要としていた

「距離感」

これを完全に取っ払う事がまず必要だと思った。

「今、話しかけるのはなんか違うかな…」
「相手の話に今は同調するべきやろうか…」
「ふわっとさせといたほうが…」
「ここはズバッと言いすぎないほうがいいよな…」
「この人の意見を優先的に…」

これがめちゃめちゃ邪魔していた。

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もちろん日本人らしい台湾人もいれば、
その逆もある。

でもここを取っ払ってからがほんまのスタートラインやと今では思う。

多分これは言葉だけじゃなく、
あらゆる物事にも共通していると思う。

音楽も、
ただ好きなものを聴いてるだけじゃなくて、
色んなものを聴き始めた時から世界が広がってゆくし、オリジナルが生まれる。

様々な楽器を学ぶ事で、
バランスの大切さを知る事ができる。

本来はしなくてもよい裏方の仕事を体験する事で、
ステージの裏側をしっかり知る事ができる。

そしてこれは、
普段の心の在り方にも大きく影響する。

これは決して簡単な事ではない。
その都度意識していかなければ絶対変わらない。
誰にも負けない向上心と、好奇心、そして努力が必要。

でも何かを変える為にここに来たのだから、
しっかり順応し、そして変わっていかなければ、
意味がない。

仕事の仕方、見方、捉え方、

これまた全然違う。

そこそんな重要か?ってとこに命をかける。
その逆も然り。

ファンとの距離感にしても
すごくはっきりしている。
真ん中がない。

評価にしても同様。

今回の新型コロナウイルス以降、
日本ではありとあらゆる業種が自由な活動や、
場合によっては発言までもが規制されています。

そして終息に向け数多くの医療関係の方達などが自分の命を削り尽力されている事を日々忘れてはいけない。

そんな中で、
人前に立ち表現する事を生業にしている僕たちのような人間は、皮肉にも先ほど議題にあげていた

「距離感」

これを今まで以上に深く、あらゆる視点で考えなければいけない時代に突入してしまったように思う。

ただしこれは心の距離感という意味だけではなく、
もっと現実的な面においても。

やはり生のライブに代わるものなど無い
ということが最終結論だとしても、
絶対にこの問題に関しては今後しばらくは避けて通れない。

ここをどう捉えるかも、表現者によって全く違う。

ここからは話し出すときりがないし、
この部分においては安易に答えを求める事はできなくて実際まだ自分自身もこれといえる答えを出せないでいますので、今後じっくり考えていかなければいけないと思っています。

でも一つ言えるとしたら、
必ず皆さんの前でまた今までのように歌い、
表現できる時が来るということ。

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それがいつとは断言できないにしても、
ここ台湾だってSARSが大流行した時代があって、
その経験を教訓とし今がある。

他国だって同じはず。

時間はかかったとしても。

この時を今後の未来に繋がる時間に変え、
今まで見えていなかった部分としっかり向き合う日々を過ごさなければと思います。

どえらい長文失礼しました。

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