コミュニティーについて考え直してみます、という宣言をしてみます
実は暇があるとコミュニティーと言われるものについてぼーっと考えることが多い。そんなに主張する持論もないけれど、ふと会話の中でコミュニティについて話が及ぶとちょっと熱が入ってしまう、そんな程度に関わってきた。
ふと本日思い立ってツイートをした。
上記はずっと思っていたこと。
いわゆるプラットフォームというもの、複数のそれに跨って関わってきた人間が感じる、もしかすると矛盾とも思われるような感覚。
僕は関わるプラットフォームが変わる毎に職種を必ず変えている。営業、コミュニティ、マーケティングなど、それぞれの立場においても上記の感覚は薄れるどころかより確実に自分の持論となるくらい濃く、堅く、そして染み込んでいく。
このツイートに、この感覚に込めたのは結構多岐に渡る自分の価値観。
ちなみに、僕が惹かれる「この人デキる・・!」な人は会話の節々でこの価値観を覗かせる。←別途まとめる。ここ備忘録。
昨今、最近目にするTLではコミュニティというワードにはブランドやビジネスの色が強かったりする。(TLが日々の情報の全てに感じられてしまうこと自体がちょっと怖い、それもTLで最近目にする。そしてその通りだとも思う。)そういう視点でコミュニティが見直されてるわけだから、目にする情報や考え、意見はそりゃそうなる。
でも自分だったら、と考える。
例えば、自分が人生で所属してきた複数のコミュニティ(自分が「これはコミュニティだよな」と思うもの)に、コミュニティーマネージャーはいなかった。
各コミュニティが楽しかった理由は何だろう。
数年前、数十年前にできたコミュニティ、充実していたコミュニティ、さらにその中でも今も思い出す、さらには繋がるコミュニティの共通項って何だろう。
濃くて長いコミュニティの共通項って何だったんだろう。
自分もコミュニティ運営やコーディネートの仕事もしているので、あくまでも今のコミュニティのお仕事をされてる方には賛同も敬意も示しながら、僕はちょっと別の視点でコミュニティについて考え直してみようと思った。
これから考えるので今は何の結論もない。
コミュニティにおける、コミュニティマネージャーの卒業タイミングがある(というある種仮説を持って考える)。つまり企業やブランドの「職種」としてのコミュニティマネージャーも必要になるタイミングとそうでなくなるタイミングがある。それはどのタイミングなのか。その後もコミュニティに関わる役割が何かしら必要なのだとすると(あると仮定する。)、その名称は「コミュニティ〇〇」。〇〇に入るのは何なのか。
コミュニティーマネージャーなんか必要がないコミュニティ作りは、どんなコミュニティにおいて成立するのか。成立する場合はどうするのか。必要な要素は何なのか。
以上、考える宣言。