溶ける生活インフラ
9月21日にアーバンライフメトロで配信された“首都・東京も例外ではない……コロナ禍で深刻さが増した「買い物難民」の実態”と9月23日に配信された“深刻化する「買い物難民」問題、東京23区でも「移動販売車」が重宝されるワケ”は、ともに東京という大都市でも買い物難民という、日々の生活に必要なモノを買うことが困難になっている人たちの話を取り上げた。
買い物難民は決して新しい問題ではない。記事でも触れているように、経済産業省は2010年に買い物弱者の報告書を出した。その後、中央省庁だけではなく、地方自治体、特に生活に隣り合わせの市町村は対応策に追われている。
以前に経済産業省の担当部局を取材して、記事にしたことがある。
THE PAGE 2017年4月17日配信
“全国1000万人が陥っている可能性 都心で急増“買い物弱者”対策の難しさ”(取材・文)
経産省が報告書を出してから、10年が経過した。その間、行政は有効な策を講じられていない。行政は従来から福祉のセーフティネットとして町内会・自治会といったネットワークを築き、民生委員という世話役も置いてきた。
いまや町内会・自治会は、機能しているとは言い難い。マンションなどの管理組合も、マンション管理面では力強い存在ではあるが、それが住民自治の観点で力を発揮してるとまで言うことはできるか?
明らかに、コミュニティは希薄化している。また、民生委員はなり手不足に陥り、制度自体が存亡化している。買い物難民対策のために活用できると期待されている組織が、買い物難民よりも先に対策を講じなければならない存在と化しているのは皮肉なのかもしれない。
これを”お荷物”と形容するのは心苦しいが、不要論だの存廃議論が噴出する前に、どうにか時代に適った制度へと姿を変える手立てを講じる必要が自治体にはあった。
数値化できないコミュニティという難題
行政が住民自治に手を突っ込むことは、できるだけ避けたかったというのが、自治体の本音だろう。なによりも、コミュニティという目に見えない、そして数値化できないモノを行政がなんとかするのも実は難しい。目に見えない、数値化できないモノは予算化しにくいのだ。
民生委員などは実質的に無給。善意で成り立っていた制度だけに、そこから方向転換は容易ではなく、改善の見込みは薄い。町内会・自治会も、現代の若者たちとの乖離は大きい。
現在の町内会・自治会を取り巻く環境は、以前に取材したことがある。
THE PAGE 2016年10月11日配信
“岐路に立つ町内会・自治会 品川区が条例化に乗り出した理由とは?”
THE PAGE 2016年10月12日配信
“岐路に立つ町内会・自治会 条例化見送りとなった世田谷区の事情とは?”
時代を経て社会環境が変わり、町内会・自治会にも複雑な事情が出てきている。その一端を表すのが、資産の継承だ。
THE PAGE 2016年11月8日配信
“岐路に立つ町内会・自治会 組織資産どう引き継ぐ?法人化という“選択肢””
町内会・自治会と同様に、民生委員も制度が時代にそぐわなくなっていると言わざるを得ない。将来的にどう制度を残していくのか? これまで果たした役割から探ったこともある。
THE PAGE 2017年6月12日配信
“児童虐待、単身高齢者、母子家庭……役割増す制度100年迎えた民生委員のいま”
こうしてみると、やはり善意に基づいたセーツティネットは脆く、永続的に維持するのは容易ではないことが感じられる。
行き着くところ、これは市町村議といった基礎自治体の議員に任せるしかなくなる。ところが、市町村議は国会議員とは違い秘書を公費で賄うことができない。実質的に一人で立ち回ることになるから、そこまで手が回らないというのも事実としてあるだろう。
効率化・合理化が生んだ劣化版企業
役所の職員は、いまや合理化で職員は大幅に減っている。さらに、非正規化が進められて、専任職員も少ない。人と人とが顔を付き合わせるコミュニケーション部門として、すぐに退職・交代させられる非正規化の加速と増加は、行政にとって致命的ですらある。
地域コミュニケーションは、本来なら行政が担う仕事のはずだが、市場化テストに見られる民営化や指定管理者制度のような民間委託化が拡大したことで、もはや行政は単なる劣化版企業になっているというのが実情だろう。
行政は税金を投じて社会生活を充実させるという使命すら遂行できないほど、弱体化してある。職員を責めることはできない。。それは、私たち有権者が望み、選択してきたからだ。
行政の現場は、単にマンパワーが足りない。それだけでも厳しい環境下にあるが、高度な知見・技術を持つ人材がいないことも行政を滞らせている。それが行政改革の結果であり、弊害といえるかもしれない。
買い物難民対策は民が救世主になる!?
買い物難民対策としては民間の方が、まだ先行している。ミニスーパーやネット宅配は急速に普及し、一応は食料が手に入らないという状態は大幅に改善されている。そうしたイノベーションによって救われる買い物難民がいる一方、同時進行で買い物難民も増えている。
どうしても、商店・ネットスーパーがすくい取れない需要があり、それが官を悩ませる。民間にとっては、そうしたすくい取れない層は採算が合わないという話でもある。
採算が合わないことが、民間にとって大きな問題になっている。現在のビジネスは効率的に需要を集めて、それを捌くことにある。大規模集約化はビジネスを効率的にする上で非常にメリットが大きいが、一方で弊害も出てしまう。
その弊害によって、制度からこぼれ落ちてしまう人たちをどう救済するか? それは公的使命を帯びた官が役割を果たすのが、もっとも適切だろう。
企業は利益が10割!
従来だったら、買い物は民間企業の領域だった。民間企業は物を売ることで成り立つ。買い物という商行為は販売者と購入者の関係があって成り立つ。
仕入れる値よりも売価の方が、当然ながら高い。仕入れ値にくわえ、流通費や店舗の維持費、人件費、さらに利益を乗せて販売する。利益が出なければ企業として存続できない。とはいえ、仕入れ値の原価に乗せられる費用にも限界がある。儲けを最大限に考えつつも、消費者が買うと思えるような値段設定が必要になる。
採算度外視の商品も単体で見ればあるだろう。しかし、全体的に利益を出せなければ商売として成り立たない。当然の話だが、実はこれが難しい。
税金から助成金などを手当てしてもらって損失を補填されることもあるが、基本的に民間企業は自立的な経営を求められる。つまり、儲けが出る見込みがなければ民間企業は進出しない。
少子高齢化や過疎化といった我が国が直面する問題は、実は単なる人口問題では表せない歪みをあちこちで生んでいる。社会問題化している”買い物難民”もそのひとつといえる。
焼き尽くされた商圏
商店の大規模集約化は、昭和期にも盛んに問題視されてきた。それらの主流は大型店が地域の商店街を滅ぼすといった論調だった。近年、こうしたビジネスモデルは、地域の牧草を焼き、そして次の地域へと移っていく遊牧民の焼畑農業になぞらえて、焼畑商業などとも揶揄されてきた。
大規模商業施設による焼畑商業は、それはそれで問題もあるのだが、令和における問題は似ているようで構造が異なる。
大規模店が商店街を潰しても、大規模店はそこに残る。ネットショップが商店を潰せば、そこに何も残らない。アマゾンをはじめとするネットの小売業は、地域の小売店が全滅しても困らない。なぜなら、ほかの地域に移れば問題ないからだ。
しかし、地域に住んでいる人はそうはいかない。また、地域を守る使命を課せられた行政も対策を講じざるを得ない。ネットを主戦場とするインフラ企業には、そうした社会的使命を考える必要はない。考えなくてもいい。とにかく利益の追求が最優先される。その意識的なズレが問題を生じさせる。
経済が右肩上がりを続ける時代だったら、それでもよかっただろう。しかし、今は違う。いや、もしかしたら何もしなくても経済が右肩上がりを続けている時代に、何も考えていなかったツケが今になって表出したと考えると、経済が右肩上がりの時代だったら〜などとマヌケなことは言えない。
近年はコミュニティビジネスという概念が広まりつつあり、必ずしも地域を無視して利益だけを追求する企業ばかりではなくなった。しかし、グローバルにビジネス展開するIT系は、そうした地域とのつながりに対しての意識は希薄だ。現段階において、ITはコミュニティビジネスには馴染まないのかもしれない。
東京都の村から
24時間営業のコンビニが街に溢れ、ネットで何でも買えるようになり、生協やスーパーでも自宅まで配送するサービスが充実している。そうした状況だけを見れば、買い物ができない地域は存在しないようにも思えてしまう。だが、しかし…。実際に、買い物で困る人たちの数はどんどん増えている。
2017年10月、私は早朝に家を出て五日市線の武蔵五日市駅を目指していた。それまで乗車していた西武鉄道が拝島駅に着き、五日市線に乗り換えるため駅構内を歩く。それまで乗っていた多くの乗客は見当たらなくなり、電車内の様相は一変した。
終点の武蔵五日市駅には迎えの人が来るはずで、駅を出るとすぐに見つかった。それほど閑散としているような駅前ではなかったが、駅から自動車に乗り、離島を除けば東京で唯一の村と言われる檜原村を目指した。
駅から檜原村まで、舗装された一本道を延々と走った。ところどころ山深い場所へと入っていくような風景も見られたが、ドラマなどで見るような田舎のような印象はなく、民家も商店もあった。
檜原村は寒かった。東京都内とは思えないほど屋内でも寒く、どこの店でもストーブを焚いていた。檜原村には一晩宿泊したのだが、目が覚めて外に出て見ると、一面に雪が積もっていた。さすがに道路は除雪されていて自動車の運転には支障はなかったが、その積雪量に私は驚かされた。これが、同じ東京都なのか、と。
そんな檜原村には、村民が買い物するようなスーパーなどがほとんどなく、多くは自動車で隣接するあきる野市や県境を超えて山梨県上野原市へと買い物に行くという。
檜原村にもアマゾンや楽天といったネットで注文した商品は届く。日数も、同じ多摩エリアと変わらない。一部でケータイの電波が入らないような場所もあったが、民家のあるような集落では問題なかった。
こうした檜原村を取り巻く環境を見れば、買い物で困る人は少ないかもしれない。しかし、自家用車ありきの生活は、高齢者に適しているとは言い難い。
村民のコミュニティが維持されて、隣近所の人が出かけるついでに同乗させてもらう、買い物を頼むというのも成り立つが、それだって毎回のように叶う話ではない。それこそ行政がセーフティネットを構築しなければ、持続可能な社会には向かっていかないだろう。
檜原村は鉄道がない自治体だから、こうした悩みを抱えるという意見もある。もちろん、それも一因だろう。檜原村は買い物難民対策として、ミニスーパーともいえる商店「かあべえ屋」を公営で開設。20時まで営業するという、驚きの利便性を発揮している。
これらは地域振興という観点で語られがちだが、税収という観点でも語られていい話なのかもしれない。公営ミニスーパーの開業は、民業圧迫という指摘もあるが、そもそも民間が進出しないようなエリアだから、そこは問題ないだろう。
都心部でも生まれる買い物難民
鉄道やバスが充実しているエリアでも、すでに買い物難民は深刻化している。私が買い物難民の社会問題に興味を持つようになったのは、地方都市の現象と思っていたが、実は東京などの大都市でも起きている問題だということがわかってきたからだ。
千代田区や港区といった交通網が充実している都心部は地価が高く、そうじて賃料が高くなる。スーパーなどの小売店は出店しづらい。そもそも夜間人口が少ないから、売り上げも昼間に偏る。それも、スーパーの出店を遠ざける一因になっている。
過疎化の進むエリアだけではなく、オフィス街化したエリアでも買い物難民は発生している。もちろん、そうした買い物難民は少数派だろう。しかし、困っている1割を切り捨てない。それが行政の役割であり、使命である。
こうした1割を無視していれば、それは2割、3割と増えてしまう。2割、3割と増えてから対策を練り始める頃には、進行するスピードは加速度的になり、とても間に合わない。
経済原則だけで測れない役割が行政にはあるのだから、本来は1割のうちに手を打たなければならない。しかし、民営化だ〜効率化だ〜税金の無駄だ〜と次々に切り捨てられてしまい、それが行政の体力を奪った。そして、単なる税金徴収マシーンのように思える存在にしてしまった。ゆえに、無駄の印象を強くし、さらなる無駄削減へとひた走る。負のスパイラルにもなっている。
体力を失いつつある官とはいえ、買い物難民問題を放置するわけにはいかない。民間と協働して、何とか対策を打つ。そのひとつに、移動販売車によるスーパーの展開がある。
京王電鉄は団地などを回る移動販売車を、とくし丸は自分たちによって切り開いた販路で、そうした買い物難民解消に取り組む。
自家用車があっても難民化する
買い物難民と同様の問題として、ガソリンスタンド過疎地についても考えなければならない。ガソリンスタンドが減少して、思うように給油ができなくなっているという社会問題は、すでにあちこちで見られる。
実際、私も記事にしたことがあるが、改めて見て見ると、ガソリンスタンド過疎地問題は買い物難民よりも早い段階で記事にした。
THE PAGE 2016年11月14日配信
“電気自動車普及も裏目?減少率全国一 東京のガソリンスタンド過疎地化問題”
商店がないからマイカーで隣の街まで買い物に行く〜という生活スタイルは、自家用車があるから成り立つわけだが、自家用車を保有していてもガソリンスタンドがなければそれも絵に描いた餅でしかない。
電気自動車の普及や過疎化によって、地方都市ではガソリンスタンドが続々と廃業に追い込まれている。自宅から半径30キロメートルの範囲内にガソリンスタンドがない地域はどんどん増えている。経産省は市町村内に3か所以上の給油所がない自治体をガソリンスタンド過疎地として、対策を急いでいる。
対策を急いでいると言っても、ガソリンスタンドの出店を促すことは難しい。いまや、世界の潮流は環境にやさしい電気自動車や水素自動車であり、補助金を出してそちらへの買い替えを奨励しているぐらいなのだから、逆行するような政策は打ちづらい。
一方、生活の現場で発生する問題と向かわなければならない市町村は違う。市民から「給油ができなくて困っている」「隣町まで行かないとガソリンスタンドがない」と相談されたら、対処せざるを得ない。
地方都市では、農機具の燃料で灯油も欠かせない。電気自動車・水素自動車は環境面で奨励しなければならいが、その過渡期である今は市民の生活を脅かすわけにはいかない。
かといって、縮む需要が明らかなガソリンスタンドを出店してくれる事業者もいない。こうなると、行政が公営で給油所を出すしかない。買い物難民問題と同時進行で、ガソリンスタンド過疎地問題も水面下では進んでいた。
過疎地だけではないガソリンスタンド問題
ガソリンスタンド過疎地の問題は、地方の人口が少ない過疎地から表面化したが、実は都市部の方が深刻だという指摘もある。
東京・大阪といった大都市部は、月〜金まで仕事で外へ出る。職場まで自家用車で通勤というスタイルは少数派で、ほとんどが鉄道を使う。マイカーを所有していても、使用するのは週末に限られる。
これまでだったら、そうした非経済的的な自動車保有しか術がなかったが、近年ではカーシェアリングが普及し、自動車を常に保有している必要は無くなった。
カーシェアに切り替えれば、自然と自動車を運転する機会は減る。マイカーを保有していれば1キロメートル離れたスーパーに自動車を使っていたが、それが自転車や鉄道に切り替えられる。
原油高が後押しして、ガソリン消費を控える=自動車での外出を減らすといった意識も強くなる。また、都心部は駐車場を探すのも苦労するので、外出も鉄道でいのでは? という意識も強くなる。
コロナ禍によって、鉄道からマイカーへの回帰も見られたが、それも一時的な話になるかもしれない。いずれにしても、今後は自動車を使う機会が減ることは間違いない。なぜなら、若者の自動車離れともいわれるように、自動車を保有するのは、コスパ的に引き合わない。
ガソリンの総免許の取得費用、自動車の購入費用、維持・管理のための駐車場代・ガソリン代・保険料などは可処分所得が減るなかで、そんな重い負担を避けたいという経済的な防衛本能が働く。
高齢者ドライバーによる過失事故が大々的に報道される風潮から、免許返還の機運も高まる。こうした背景から、自動車保有者は確実に減少して行くだろう。それに伴いガソリン消費量も減り、ガソリンスタンドの経営を蝕む。
生活インフラとしてのガソリンスタンド
もはやガソリンスタンドに明るい材料は見当たらない。しかし、生活を支えるインフラであるために、経産省はガソリンスタンドを維持する策を頑張って練っている。
ガソリンスタンドににカフェやコンビニを併設するといった油外収入を模索する動きもあるが、それだったらアガリの少ないガソリンスタンド経営を切り捨て、カフェ一本に経営を絞ったほうがいいという判断も働く。
多少は実入りが少なくなっても、心身の疲労度合いを考慮すれば、ガソリンスタンドを畳むほうが割のいい話だ。こうした流れもあって、今のところ油外収入を増やすという経産省の目論見はうまく進んでいるとは言い難い。
ガソリンスタンドは生活に欠かせないインフラではあるが、一方で災害時には避難場所としても活用できるインフラとされている。東日本大震災時、多くの人が歩いて自宅もしくは勤務先へと帰った。
帰宅の道中、ガソリンスタンドにお世話になったという人もいるのではないだろうか? ガソリンスタンドは非常時に防災拠点として活用することが定められており、建築基準としても耐震性・防火性に優れている。
非常用電源などを備えているため停電時も明かりを灯すことができるほか、トイレの利用や飲用水の備蓄などもある。近年では通信環境も整備されているので、避難中にガソリンスタンドで災害情報を得ることも可能になっている。
ガソリンスタンドは平時の生活インフラというだけではなく、非常時のインフラとしての役割も併せ持つ。それが経営難によって消失していけば、私たちの身の安全にも関わる話になるだろう。これを経済原則といって割り切ることができるのか? 悩ましい問題といえる。
ガソリンスタンドを追い込んだ消防法
ガソリンスタンド過疎地問題は、2009年頃には忍び寄る危機として囁かれていた。その引き金になったのが、2010年に施行された消防法の省令改正だった。
ガソリンスタンドが供給しているガソリンは、その多くが敷地の地中に埋設したタンクに貯蔵している。この貯蔵タンクは高度経済成長期に採用された素材を使い製造されている。そのため、加工技術・材料技術が向上した現在から見ると、安全面で劣ってします。
現在のモノが過去のモノよりも安全であることは当然だが、災害時のインフラにもなるガソリンスタンドをより安全にすることを名目にして、貯蔵タンクの規制を強めることにした。
この規制強化により、貯蔵タンクの交換を強いられるガソリンスタンドが続出。貯蔵タンクの交換は莫大な費用を発生させる。また、交換作業のため、数日間は休業を余儀なくされる可能性もある。休業で売り上げが減少すれば、それだけで死活問題になるだろう。
多額の費用を投じて貯蔵タンクを交換しても、ガソリンスタンド経営は右肩下がり。それだったら、これをいい機会に廃業してしまおう、別の業態へ転換してしまおうと考えるガソリンスタンド経営者は少なくなかった。
こうしてガソリンスタンドは、一気に減少した。そして、電気自動車の台頭、そして若者の自動車離れ、さらにはカーシェアリングの浸透といった具合にガソリンスタンドにとって厳しいと思わせるようなトピックがつづく。
買い物難民もガソリンスタンド過疎地も、どちらも都市部・地方関係なく襲いかかっている問題だ。行政、特に中央省庁はそれらを解決する術を持たない。地域ごとに課題が異なるため、国が全国一律の取り組みとして推進することが難しいことが一因にある。
グローカルという視点
地域に根ざした市町村は公金を投入して、私たちの生活を守ろうと懸命になっている。それが効果をあげているか?という疑問は大いにあるかもしれない。空振りしている自治体だって、間違いなくある。
それでも、個々の地域事情に配慮して動くことができるのも市町村にしかできない。しかし、市町村に与えられた権限・財源は限りなく小さい。ゆえに、できることにも限界がある。
一方、民間は成功すると予測できる地域に絞って事業を展開できる、美味しいところだけを食べることができる。繰り返すが、私たちの生活は企業にとって美味しいところだけがあるわけではない。採算にはならない事業も、生活の一部としてある。
道路・鉄道・港湾、水道・電気・通信といったインフラだけではなく、買い物や燃料といった一見すると民間が担わなければならない生活インフラを、行政は住民のために維持しなければならない使命が課せられている。
グローバルな時代だからこそ、ローカルな問題に機動力を発揮して行政は問題解決にあたらなければならない。グローバル+ローカル=グローカルという視点が求められるようになって久しいが、その道のりはいまだ半ばだ。