「住む」ということ、「暮らす」ということ

みんな、住むところで悩んでいる 

 ビジネスジャーナルに寄稿した”ゴーストタウン化する東京の高級住宅街…富裕層は厄介な広い一軒家より都心タワマンへ”は、住環境のトレンドが一戸建てからタワマンに移っていることをレポートした。

 昭和まで、我が国における持ち家神話は根強く、それは不動産が高い東京圏でも変わらない。高度経済成長期、地方から押し寄せた金の卵たちは勤め先である町工場や商店に住み込みというスタイルをとっていた。住居手当が払えないからなのだが、仮に払えたとしても当時はそもそも住むような住居がなかった。

 昭和30年代にさしかかると、そうした金の卵たちも家庭を持つようになる。さすがに、夫婦で住み込みというわけにはいかない。なにより子供を生み、育てる。できれば子供は2人というのが政府が描いた理想の人生プランなのだ。そうしたプランを忠実に再現してもらわなければならない。政府は1955年に日本住宅公団を設立。不足する住宅の整備に取り掛かった。

 政府が設立した日本住宅公団は、日本全国が対象。それだけに、手が回らない。そのため、住宅建設が遅々として進まないエリアが続出する。それは、主に大都市圏の周辺部だった。公団の整備スピードにやきもきしていた各地の自治体は、独自に公社を設立していく。

 住宅の供給に向けて、整備計画を開始する。こうした公社の大半は、広域行政を担う都道府県が設立していたが、都道府県では手が回りきらないような、爆発的に人口が増加している自治体は、都道府県とは別に公社を設立し、住宅開発に取り組んだ。

 人口350万人を超え、人口規模は都道府県と比肩する横浜市も、市で団地・ニュータウン開発に乗り出した自治体のひとつだ。横浜市はいくつかのエリアで神奈川県と競合しており、県が整備した住宅地と市が整備した住宅地が隣接していることも珍しくない。

 役割分担などと言っているヒマはなかった。とにかく、一刻も早く住宅の戸数を増やす必要に迫られていた。それだけ、横浜市では人口が急増していたのだ。当然ながら、こうしたニュータウンは郊外に建設されている。

働き方が「住む」を変える 

 明治以降に人口が集積していたのは都心の、ほんの一部に過ぎない。東京でいえば、山手線の内側よりもさらに範囲は狭い。千代田区・中央区・文京区・港区、そして新宿区東側の一部ぐらいだろうか? 新宿区東側も牧場などが広がっていたから、本当にごくわずかなエリアにしか人口は集積していなかった。

 当時、多くの国民は農業を稼業としており、そのために広大な田畑を必要としていたからだ。人口の集積よりも広大な土地が求められたことが大きな要因だ。

 明治半ばになると、市区改正ブームなどもあって東京や大阪といった大都市も広域化してくる。市区改正が実現できた立役者には、鉄道の存在が大きい。移動時間を短縮する鉄道は結果として都市の広域化を進め、可住面積を増やし、職住分離を促した。

 そして、職住分離によって日本の工業化が進んでいく。それ以前の家内制手工業とは異なり、大資本による大規模工場が次々と設立された。当初、大規模工場は都心部にあったが、それも後藤新平が策定した都市計画法によって郊外へと移転していく。

 郊外に移転といっても、むやみに広い土地が好まれたわけではない。生産された品を大量かつ迅速に運ぶ必要があっため、工場が立地するのは交通の便がいい、大都市近郊に開設される傾向にあった。東京23区の板橋区や北区は工場が多く立地し、今でもその面影をたたえているが、それは大正期の工場集積によるものだ。

 一方、住宅地は工場とは異なる来歴をたどる。職住近接から通勤という変化は、工場の郊外化とともに進められたが、工場の郊外移転においては通勤は勘案されない。多くは工場や近くに住み込みで働くというのが一般的。もしくは、工場近くの農家の次男坊三男坊などが働き手として歓迎されたか、結婚前の女子が重宝された。

 そうした農村の子女たちとは別に、当時は数少ない企業勤め人たちは目黒・世田谷などに住宅を構える傾向が強かった。関東大震災で都心部の家屋が倒壊もしくは焼失してしまったために、都心部は危険というイメージがついてしまったからだ。世田谷区・目黒区などは被害が小さく、ゆえに中産階級が好んで家を構えるまでになった。

庶民が住まいをもつということ 

 戦前期までで、早々に東京23区には住宅が密集するようになり、新たに住宅地がつくられるようになるのは戦災復興、そして高度経済成長期のニュータウン開発まで待たなければならない。それまでの住環境は、お世辞にも好ましいものではなかった。

 ニュータウン開発が進んだことで、それまでに開発された住宅地は一線を画すようになる。明治初期に開発された大和郷、関東大震災後に規模を拡大させた田園調布、昭和に入ってから高級住宅街となった成城学園常盤台は一戸建てが基本、ニュータウンは中高層の団地がメインで、いわゆる集合住宅。一昔前までの長屋から住環境は大幅に改善されたが、あくまで集合住宅でしかない。

 ひばりヶ丘団地を皇太子・皇太后が視察。狭いながらも、2DKという間取りはスタンダードになり、それが普及していく。2DKがスタンダードであるという概念は時代や地域によっても異なる。私が幼少期を過ごした昭和50年代の静岡市では、あくまで団地暮らしは公務員や医者。その医者も県立や市立病院に勤めている人たちなので、公務員ではある。

 家族構成にもよるだろうが、そうした官舎・公舎の団地は2LDK〜3LDKがスタンダードだったように思う。友人宅に行くと、兄弟がいるのに自室があり、羨ましがった記憶がある。3LDKぐらいなければ、兄弟がいて、自室は与えられなかっただろう。

 持ち家神話はバブルが崩壊した平成にんあっても隠然して続いていた。ただ、もう無理という気配も微妙に流れていた。だから、小泉政権ぐらいから都心回帰が始まり、それは住戸の狭小化にもつながる動きになっていく。

 それまでの家族構成も変わった。いまや核家族の方が一般的になっている。一時期にもてはやされた二世帯住宅も、声すらきかなくなっている。そこには、時代とともに変化したライフスタイル、そしてライフスタイルとともに変化した都市構造、都市構造とともに変化したライフスタイルといった、さまざまな要因が複雑に絡み合った結果でもある。

投資対象になった「住む」

 ライフスタイルは住宅に大きな変化を与えたが、その一方で交通機関の発達やITの進化という社会環境の変化も住戸には大きな変化をもたらしている。ITかにより、オフィスは小さくなり、そしてついにはコワーキングスペースという一時的なオフィス空間さえ確保できれば事足りるようになっている。

 同時に、働き方改革というライフスタイルの提唱も時機を得た。これまでは9時出社・17時退社という、どこの企業も画一的なワークスタイルを採用していたが、それがフレックスの導入・在宅ワークの拡充によって崩れていく。

 そうなると、スタンダードとされてきた住戸モデルが成り立たなくなる。結果、住宅はそれぞれの考えに基づく、言うならばファッションに近いものへとシフトしているといえるだろう。まるで、自動車の所有がそうなったように。

 住戸や住宅街をめぐる変化で、。もうひとつ見逃せない動きがある。それが、投資だ。昨今、NISAなどの登場によって投資へのハードルは多少なりとも下がった。さすがに不動産投資は上級者向けだろうが、REIT(不動産投資信託)なら、投資信託と同じ感覚で始められる。

 富裕層が高級住宅街の一戸建てではなく、タワマンを買っている傾向は強くなっているが、しかし、タワマンが活況を呈しているのは富裕層のタワマン爆買いだけが要因ではない。投資目的の転売・転貸によるタワマン需要が大きく、それらが不動産相場を吊り上げる。

 ライフスタイルの変化が絶えず続いているとはいえ、このところ賃貸物件で需要を急拡大させているのがワンルームマンションだ。その背景には、やはりタワマン投資不動産投資の過熱が背景にある。もはや、マンションは住むモノではなく、投資の対象になってしまった。

 豊島区ではワンルームを抑制しようと、ワンルームマンション税を制定した。今のところ、豊島区のように税を制定してまでワンルームマンションの建設を抑制しようとする自治体はほかにはないが、それでもワンルームマンションだけが増加するという状況に気を揉む自治体は少なからずある。

 不動産投資が過熱し、その行き着いた先が地方都市で顕著になっているサブリース問題といえる。かぼちゃの馬車に端を発したサブリースが大きく問題視された。

 そのため、行政も対策に動き出している。しかし、サブリース問題はもともと金融庁をはじめ、行政が投資を煽ったことに端を発している。そのため、問題はかなり複雑だ。だから、問題視する声が沈静化すれば再び活発化する可能性は否定できない。


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