地方自治体は子供たちを守れるか?

難局化する児童保護行政

 THE PAGEに寄稿した“東京23区で唯一、練馬区が児童相談所の設置を表明しない理由”は、以前にもTHE PAGEには児童虐待関連の記事を2本寄稿している。

”増える児童虐待。法改正してもなぜ2市だけ?進まない中核市の児童相談所開設”

”過去にも虐待死が。法改正後、急ピッチで児童相談所開設目指す東京23特別区”

 今回の練馬区児童保護行政の記事は、いわば、地方自治体における児童保護行政の第3弾。

 児童保護行政を司る児童相談所は、近年になって急速に注目されるようになった行政機関でもある。その背景には、児童虐待死が大々的に報じられるようになったことが大きく起因していることは間違いない。2018年の東京都目黒区の女児虐待死事件、今年になって明るみに出た千葉県野田市の女児虐待死事件など、凄惨な虐待死は後を絶たない。

 虐待通告は、1日に1万4000件にものぼっている。児童が死に至るような事件ではなくても、行政が保護に乗り出すケースは1日に4件を数える計算になる。虐待通告のほとんどは、近所・学校からの通告だが、ここには過剰な反応も含まれる。だから、虐待件数の実数は把握が難しい。何をもって虐待とするのかは線引きできない。

 愚図る子供に対して、「もう置いてっちゃうからね!」と金切り声をあげるお母さんを近所のスーパーやコンビニ、公園などでは日常的に見かける。これを虐待と見る風潮は日本にはないだろうが、それだって程度問題。こんな金切り声をあげている時間帯や場所にもよる。深夜2時3時だったら、住宅街とはいえ、虐待の疑いは濃くなる。

 虐待死が注目されることにより、世間一般の目が児童虐待に対して厳しくになったことはあるだろう。関心が高まることは、おおむねいいことだと捉えられる。だからと言って、すぐに児童保護行政を児童相談所や役所から切り離し、警察に依存するような意見には首をかしげざるを得ない。これは、現場を経験していなくても、児童虐待に関連する人たちの声を聞いていれば容易に想像がつく。

 どんなにひどい虐待を受けていても、多くの子供たちはお父さん・お母さんが大好き。それは時代が変わっても普遍的。幼少期に虐待を受けた作家・エッセイストは数多くいるが、それらの作品を読んでも、また、児童虐待に関する論文や報告書に目を通しても同じ印象を抱かされる。

 死の寸前まで追い込まれている状況でも、子供たちは親を慕う。自分のことが自分でできるようになると、そうした気持ちを忘れてしまいがちだが、子供にとって親は盲目的に信頼を寄せる。どんなに折檻されても、子供には親しかいない。親をもっとも信頼している。だから、親と離されることを絶対的に嫌悪する。信じられないことのような話でも、それが親子であり、親と子の関係は理屈で説明できない。

権限移譲で地域密着しても、増えない児相 

 虐待の疑いが濃厚というより確実と行政が判断した場合でも、子供は行政職員を「私から親を奪う人」「私を連れ去ろうとする人」と見る。児童を助けようとする行政職員とはいえ、子供にはまったく知らない大人なのだ。恐怖感を抱かないわけがない。慣れ親しんだ親の方がいいと泣く子供だっている。それでも、命を守ることを優先する児相は、心を鬼にして親から強引に子供を引き離さなければならない。保護とは、そういう行為なのである。

 一方、児童相談所に寄せられる問い合わせなどは、そうした虐待案件ばかりではない。子育ての方法に悩む親、経済的な事情から子育てが疎かになってしまう親など、子育て相談も多い。子育ては一律に進められない。悩みも問題も千差万別。ゆえに、一件一件、時間をかけて対処するしかない。ここに、児相の人手不足が起因している。

 児童保護の分野だけに限った話ではないが、最近の児童保護行政は高度化・複雑化していることも児相の業務煩雑化に拍車をかける。そうした事情が、児童相談所に配置される人員は自然と少なくする。それが、さらに業務を激化させる。

 児相の設置権限は、長らく都道府県および政令指定都市に限定されてきた。2006年の児童福祉法改正により、設置権限が中核市にも付与された。都道府県や政令指定都市は児相が必置、つまり必ず設置しなければならなかったが、中核市は「設置できる」という位置づけにとどまる。

 千葉県野田市で起きた女児の虐待死事件では、柏児童相談所が対処にあたった。しかし、これは柏市の行政機関ではなく、あくまでも千葉県の行政機関だ。千葉県の出先機関でもある児相が、野田の案件を扱う。

 児童保護行政は、学校や町内会という地元との連携が欠かせない。そうなると、千葉県の出先機関では地域の事情を把握しづらい。きちんとした体制を構築できなければ、児童を殺してしまうことにもつながりかねない。実際、目黒区の件も野田市の件も一時は児童を保護しながらも児童を死に追いやってしまった。

 これは、なによりも情報・連絡のミス・齟齬が第一義にある。ゆえに、より地元に密着した保護機関を開設するという意図から、都道府県に任せるのではなく、できるだけ住民に近い行政体が児童保護行政をおこなうべきだとの意見が出るのは自然な流れでもある。

 そうした声を受け、2016年に児童福祉法が改正された。東京都23特別区でも児相が設置できるようになった。しかし、中核市が児相の設置ができるようになってから10年が経過しても、中核市で児相を設置したのは神奈川県横須賀市石川県金沢市の2市にとどまっていた。2019年4月に、ようやく兵庫県明石市にも児相が設置されたものの、まだ中核市で児相を開設しているのは3市しかない。

 暴言で辞職に追い込まれた明石市の泉房穂市長は、子育て支援をはじめとする福祉の充実を最重点政策にしていた。その明石市は、2018年に中核市へと移行。翌年には児相を開設した。児相が設置できるようになってから、わずか1年で児相開設に漕ぎつけられたのは市長の意向が大きく反映されたことは言うまでもない。

 明石市のようなケースは稀で、実際に児相を設置できる中核市でも開設までには高いハードルがあり、ほとんどは開設を諦めてしまう。児相の設置が進まないのは、行政にやる気がないことが理由ではない。人手不足に起因している。それでも、児童虐待死対策は焦眉の急であり、見切り発車と言われようとも、児相の設置を急ぐ自治体は多い。

 2019年4月1日現在、中核市は58市ある。そのうち児相を開設しているのは、わずか3市。設置率は5パーセント程度にとどまる。児相設置がいかに困難なのかを物語っている数字といえるだろう。

 児相の設置が進まないのは、行政にやる気がないことが理由ではない。人手不足に起因している。それでも、児童虐待死対策は焦眉の急であり、見切り発車と言われようとも、児相の設置を急ぐ自治体は多い。

 2016年の児童福祉法改正で、東京23区にも児相の設置が可能になった。その際、真っ先に手を挙げたのは中野区だったが、職員を養成する、揃えるのに時間がかかるという理由から開設時期を遅らせた。ハコは用意できても、人は簡単に育成できない。中野区の件は、まさにそれが露呈した格好だった。

荒川区の子育てをめぐる政策 

 中野区の後を追うのが、世田谷区荒川区江戸川区の3区。世田谷区は政令指定都市に匹敵するほどの人口を擁し、保坂展人区長も政令指定都市並みの権限を移譲するように繰り返し要望している。そうした自負もあるだろうから、政令指定都市のように児相は必置と考えているのだろう。児相設置を急いでいることは理解できる。

 江戸川区では、2000年に凄惨な児童虐待死が起きている。そうしたことから、江戸川区は子育て支援政策に力を入れてきた。児相設置のトップランナー3区に、江戸川区が名を連ねるのは、そうした経緯ゆえだろう。

 荒川区は、西川太一郎区長が23区を束ねる特別区長会の会長を務めているから、23区の先頭を走らばければならないという矜持があると思われる。また、荒川区は子育て支援には積極的に取り組んでいることも大きな要因だろう。

 荒川区は公園内に保育所の設置を可能にした国家戦略特区を活用し、都立公園区立公園にぞれぞれ保育所の開設を進めている。これは国家戦略特区の第1号案件だが、都立公園を活用した保育所の開設はほかの区でも進められている。

 荒川区が先取的なのは、区立公園でも保育所開設に取り組んでいることだ。また、荒川区は保育所のみならず都立公園内で学童の開設にも着手した。学童開設は、荒川区が日本初の試みになる。

 そうした子育て支援を加速させるべく、荒川区は遊園地のあらかわ遊園を子育て支援施設と位置付けた。子育て支援支援としたことで、それまでの所管していた防災都市づくり部道路公園課から子育て支援部荒川遊園課へと改組した。

 あらかわ遊園は都市公園法で定める公園であり、荒川区内にあるほかの区立公園は道路公園課が所管する。対して、あらかわ遊園だけはあらかわ遊園課が担当する。荒川区はあらかわ遊園を単なる遊び場ではなく、あくまでも子育て支援施設とし見ているのだ。

 ここまで荒川区が子育て支援に力を入れている背景は、おそらく荒川区の人口が少ないことにある。荒川区の人口は、約21万。隣接する文京区は約22万、北区は約34万、台東区は約19万、足立区は約70万。台東区の人口規模は上回るものの、都心部の文京区よりも荒川区の人口は少ない。

 しかも、近年は都心回帰現象が加速しており、文京区の人口はゆるやかに増加することが見込まれている。また、人口が少ない台東区は上野や浅草といった繁華街を抱え、若者でにぎわうサブカルの聖地・秋葉原は駅こそ千代田区に立地しているものの、駅圏には台東区が含まれる。

 そう考えると、荒川区は人口政策で苦しい立場にある。人口が少なくなれば、税収は減る。税収が減れば区民サービスは低下し、それが人口減少を加速させる。そうした危機感が、子育て支援政策を後押しているのだろう。

役割分担を明確化する練馬区

 東京23区に児相を設置できる権限が付与され、23区中22区が児相の設置に動き出した。先頭を走る3区に対して、ほかの19区でも児相の設置表明がなされている。

 今のところハコモノの整備計画は立てられているが、実際に運用できるほどの職員が揃えられるのかは未知数だ。特に、現場職員の確保は困難を極める。児相開設を考える22区は研修を実施したり、都道府県や政令指定都市の児相に職員を研修に出したりしている。それでも、職員の養成は追い付かない。

 また、港区南青山では地元住民の反対が起き、児相開設のスケジュールに遅れが出ている。これらは報道で大きくクローズアップされ、児相が迷惑施設と化していることを物語る。しかし、港区としては必要な施設と捉えているので、なんとしてでも児相をつくる方向で計画を進めている。

 そうした22区と一線を画すスタンスを敷いているのが、練馬区だ。練馬区は児相の設置を検討していない。東京23区には、どこの区にも子ども家庭支援センターを開設しており、これらが子育て支援・相談にあたってきた。

 児相は担当する業務が、支援センターよりも幅広い。虐待への対応も、支援センターではなく、児相が受け持つ。しかし、前述したように、児相への虐待通告は年を追うごとに増加している。職員は不足しているのに応対件数がうなぎのぼりになるのでは、一件に割ける時間は必然的に少なくなる。

 児童と接する時間が少なくなれば、対応が疎かになることは誰の目にも明らかだろう。重大な虐待を見逃してしまう可能性だって高くなる。また、重大ではない虐待でも、対応が冷ややかと感じれられてしまえば区民からそっぽを向かれるだろう。

 時間・人員が圧倒的に不足している現状で、果たして特別区に児相機能を移せるのか? そうした考えから、練馬区は子育て支援・相談や児童虐待の対応について、第一段階では練馬区の家庭支援センターが対応するような体制を構築。深刻な案件は、児相に連絡を入れ、そして児相に引き継ぐといったスキームにしている。

 こうしたスキームを構築することで、児相の作業量を軽減し、児相が子供たちに向き合える時間を少しでも増やそうとする。もちろん、支援センターでも子供と向き合う。要するに、まずは区の支援センターで対応しようという体制づくりに力を入れている。

 児相を開設しただけでは、児童虐待はなくならない。だから、児相設置はゴールではない。あくまでもスタートに過ぎない。慢性的な人手不足の児相を開設しても効果が薄い。支援センターのままでも子育て支援や児童虐待には対応はできる。それが練馬区の考えだ。

 また、先述したように児童虐待における保護は、重大な案件の場合に親から子供を引き離すことになる。これは、児相にとっても世間的に正当な措置に思えるが、子供の目から見れば子供から親を引き離しているようにも映る。つまり、介入する職員は、子供にとって「鬼」のような人なのだ。

 児童を保護した後、子供たちは「鬼」に日常生活や学校のことなどを親身になって相談するだろうか? という心配が練馬区にはある。だから、練馬区は「介入は児相」、「相談と支援は子ども家庭支援センター」と役割分担を明確化する。そうした役割分担の明確化は、児相の負担軽減にもつながる。

 また、児相を開設した場合は、練馬区内で保護した児童は練馬区の養護施設に入所する。子供を引き離された親のなかには、行政を恨んで奪還しようとする親も少なくない。区内の養護施設を特定することはたやすい。学校の通学路などで子供を連れ戻そうとする親がいた場合、かなり危険と言わざるを得ない。そうした事情を踏まえると、練馬区の考え方にも一定の理はあるだろう。

 練馬区の「児相を設置しない」という方針を、言葉尻だけ捉えて批判することはたやすい。字面だけを見れば、児童虐待への対応を放棄したようにも映る。最終的には、練馬区も児相を開設するかもしれない。しかし、今は児相を設置しない。理想を掲げてもそれは空疎な論に過ぎないからだ。児相虐待は現在進行形であり、理想を語っていても児童は救えない。だから、現実的な方法で対処していくしかない。

 児相の設置が正しい、間違っているという判断を軽々に下すことはできない。少なくても、行政は子供を守るために、動いていることが前提になっていることは確かだ。児相設置を進めることで子供を守ろうとする自治体、練馬区のように設置しないことで子供を守ろうとする自治体。どちらも根底で共通するのは、子供を守るということだ。考え方の違いでしかない。

専門化を求められる行政

 私の体験に照らして話をすれば、これまで児童保護とは無縁の生活を送ってきた。母子寮で生活する母子家庭の友達は、数人いるぐらいだった。児童虐待についても、まったく記憶にない。数少ない接触のあった母子家庭についても、そんなに深く関心を抱くことはなかった。

 多くの人が、おおかたそんな感じなのだと思う。それを、ことさら責めることはできない。ただ、支援を待ち望む人たちがいることも事実だ。こうした支援は、行政がやるものだという概念が一般化している。実際に児童保護をはじめとした福祉行政の大半は行政が担当している。

 しかし、その福祉行政を無駄と切り捨てる風潮も強くなっている。行政に丸投げしてきた福祉政策なのに、今度は行政が無駄の削減を理由に福祉を切り捨てたら、もう福祉は成り立たない。今般、NPOが立ち上がり、福祉分野の主力になりつつある。NPOなどの活動は評価されるものだが、それでも信頼性・安定性という点において、行政の比ではない。

 福祉を切り捨てる風潮が行政で強まっている背景には、予算のほかにも人材育成という面が大きい。これまでの役所は、2~3年で部署間を異動し、どの分野でもそつなくこなせるゼネラリストを重視する傾向にあった。ゼネラリストも必要だが、社会が高度化・多様化・複雑化している中にあっては、特定の分野に根をおろすスペシャリストが必要になってくる。

 それは児童保護行政のみならず、公園・緑化のスペシャリスト、学校・児童館などの教育施設のスペシャリスト、農業のスペシャリストといった具合にどの分野でも必要になってくるだろう。

 行政の担当部署は、時代とともに専門化していかざるを得ない。それが、まったく追いついていない。しかし、行政職員はまだマシかもしれない。予算を決める市議会議員区議会議員は専門化できていない。政治家は万人を相手にすることが前提だから、仕方のない面もある。しかし、果たして今の時代にそれでいいのか?

 今般、政府も地方自治体も財政は逼迫しており、子供関連の予算を増やせば、その分はどこかを切り詰めなければならない。必然的に高齢者や現役世代にしわ寄せがいく。ボリュームゾーンの高齢者を敵に回せば、票は減る。現役世代から反感を買えば、献金などの支援が期待できなくなる。

 こうしたジレンマから票にならない、献金が期待できないといった子育て中のママなどが政治から切り離される。そして、子供への政策がおざなりになる。

 子供関連の行政予算は厳しい。住民に一番身近な行政である基礎自治体市区町村は、子供を守ることができるだろうか?



  

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小川裕夫
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