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【#かなえたい夢】紆余曲折を経て道は続いていく。
■「私の夢は、歌って踊れるアイドルスターです!」
幼稚園のお誕生月会、講堂で幼い私はマイクを持ち、そう言い切った。
どっと湧く講堂。私は自信に満ち溢れていた。
幼い頃の夢というのは意外と根幹に残っていて、「なりたくても簡単になれるものじゃない」ものに憧れを抱いて生きていくことが決まった日でもある。
そんな私の夢たちは、ひとつひとつ私が歩いた道の後ろに種をまいていく。
そして振り返った時には――。
■幼稚園のころに褒められた「おえかき」から漫画家を目指して
アイドルスターも好きだったけれど、おえかきをするのが好きな子供だった。
ある日、幼稚園の自由時間に思うがままに描いていたら
「ヒカリちゃん、じょうずー!」
と私の周りにいたクラスメイトたちが私を褒めたたえた。
基本、調子のり子なので更におえかきに没頭する日々。
小学三年生の時に初めて漫画らしい漫画を描いてみた。
異能の力を持つ鬼と人間のハーフの青春ものだ。
原稿が残っていないので分からないが、何故か超能力を作品に良く出していた。
人類を救うために闘う系も好きだった。これは確実にCLAMP大先生の影響。
それから恋愛もの。
「りぼん」派と「なかよし」派に分けるとしたら、私は圧倒的後者のなかよしに影響された組。
あの頃の恋愛ものって大人びていた。
中学生になってからは、(自分なりの)大型連載として「女優になりたい!」という作品を描いていた。クラスメイトに「早く描け」と催促されて授業中も描いていた。
高校二年生で筆を折るまでは、まさに漫画に憑りつかれていたように思う。
■演劇と脚本と私
中学、高校と私は演劇部に所属していた。
(中学時代はたまたまふらっと入部、高校は演劇部で選んだ)
高校生になると、秋の大会のための作品を部員全員が一作品ずつ持ち寄り、部員全員が全員の作品を読んで選ぶ方式を採用していた。
人生で初めて書いた脚本は、恋愛色満載の少女漫画風作品で(勿論ボツ)、それから色んな劇団の脚本を読み漁り、他校の演劇部の作品もじっくり考察し、高校二年生の時に執筆した作品が、当時の部員の満票をもらい大会作品として選ばれた。
初めての舞台監督、演技指導は楽しかったけれど、私が夏休み中あまり部活に行かなくて(色々プライベートが忙しい時期でもあった)後輩たちを泣かせてしまったこと、大会出場も危ぶまれたことは今も悔いている。
そんな危ない橋を渡りながらも、演者に育ててもらった脚本は、奈良県代表作品として近畿大会に飛んでいった。そして玉砕。そりゃそうだ。ドシロウトの脚本である。何故選ばれたのかすら謎なのに。
この頃から「コトバ」に興味を示すようになる。
小説は苦手だったので――そもそも書き方が分からなかった――この頃はまだ一切書いていない。
五分ちょっとで世界観を創り上げる「作詞」が気になるようになったのも、この頃。
受験期に「学問としてやりたいことリスト」が多すぎて志望校をなかなか決められずにいたが(興味の軸がマスコミュニケーション、言語学、演劇、地理などなど多岐に渡った)、恐らく芸術関係の学部がある大学に行くものだと思っていた。
演劇は好きだけれど、演者としての才能はなかった。
大根役者すぎて先輩からよく注意されていたもので、自覚があった。
それならば脚本を書いていきたいな、と思っていた。
しかし受験ではパントマイムなど実技が必要な大学もあり、夏は練習しながら勉強をしていたのだが、頭をよぎるのは
四年間も演劇について学べるのか?
もし飽きたら? 心折れたら?
だった。
その思いはすぐに進路指導の先生に伝えた。
先生の回答は実にシンプルだった。
「芸の道は厳しいぞ、考え直せ」
これで私の進路は一度白紙になった。
最初から考え直すのは骨が折れる。
私は演劇の中でも脚本を書いていきたいのだ。「コトバ」が好きなのだ。
そんな時に出逢った学校案内、それが母校となる大学のものだった。
「コトバ」を多角的に学べることがとても魅力的。
四年制ではなく短期大学部を受けよう、インスピレーション大事。
学力的に四年制の学部に受かる自信はなかった(蓋を開けてみればそんなことはなかったのだけれど)ので短大。ハタチで家を出たかった想いが強かった私は
本命:短期大学部日本語日本文学科
併願:四年制女子大の日本文学科二校
という不思議な受験になった。
これも全て「コトバ」のためであり、日本文学には一切興味がなかった(が、受験勉強を始めると超マニアックな日本文学作品の問題が頻出していてガチで日本文学に挑まなくてはいけなくなった)。
「コトバ」が学べるところ、就職に強い学校、一般教養と言っても多彩なプログラムのあるところ。これだけは譲れなかった。
しかし、推薦入試で併願は合格も本命短大に不合格。
そりゃそうである、国語の猛者たちが集まるのだから、夏休み明けからシフトチェンジした私は出遅れた。
二月の学年登校日が一般入試の合格発表日。
クラス別時差登校で九時組だった私は合否が分からず、十一時組は合否が分かっていたので、友達のPHSを借りて家に連絡した。
「受かってんで!」
母の声に涙が止まらなかった。
■日本語日本文学科在学中に作詞サイトの原型をつくる
短大時代は充実そのもの。
「コトバ」を専門的に勉強できる日々が嬉しくて楽しくて。
毎日毎日図書館に遅くまで残って勉強、そして土日はアルバイト。
その中から時間を使って友人の他大学に遊びに行ったり、デートをしたり。
あの頃の体力はすさまじいものがあった。
私が進学した大学は四年制だと三年の頭、短期大学部は入学してすぐに就職についての説明があった。
短期大学部の人間は就職か内部編入か、他大学編入かを考えなくてはならない。私は就職一択だったが、今思えば編入試験を受けても良かった気がする。
パソコンを本格的に触り始めたのが入学してから。
インターネット黎明期、私はコンピュータールームで気になることがあった。
誰も近寄らない五台のパソコンがあるのに、一時間待ちなのだ。
思い切って受付で尋ねた。
「あの、空席のパソコンは……」
「あれ、Macなんですよ」
これが私とMacとの出逢いである。
授業はWindows、インターネットをしたい時にはMacを独学で学び、使うように。
ブラインドタッチは当時流行していたチャットルームと「まるっと歌詞を暗記している曲を、曲と同じ速度で打ち込む」練習ですぐ慣れた。
短大二年生、夏。
我が家にiMacがやってきた。付属ソフトにホームページを作れるものがあったので、自分の城を立ち上げた。
ぽつり、ぽつりと作詞をやっていく。
基本ハウツー本は読まない派なので、自分のセンスだけが頼りだ。
徐々に人が集まるサイトができたので、それもまた嬉しかった。
「パソコンって楽しい! すごい!」
その一方で、別に取らなくても良かったシステム系のパソコンの授業を受けるくらいに、衝撃的かつ自分の就職活動に影響した。
当時、就職超氷河期。
それでも私はたくさんの会社の人たちとおしゃべりできて苦ではなかった。
本命の有名通販企業は最終選考一歩手前で落ちてしまったが、第二志望の某大手企業の情報部門が独立した会社から内定を貰うことができた。
ここでもパソコン大活躍。
内定者掲示板に、学校から、家から、毎日アクセスしては日記のようなものを書き残すという、荒らし一歩手前では? なことをやっていた。
おかげで内定者の中で名前がひとりあるきする事態に陥った。
■一度届きそうになった夢
単位も取れて、無事卒業。
社会人への第一歩を歩むことになるのだが、からだとココロのバランスがとれなくなり、馴染んできたころなのに約一年で退職。原因はうつ病だった。
闘病生活と本格的な作詞活動、同時進行だった。
コツコツやっていると、コンテスト情報も入ってくる。
今でいうボーカロイドのようなシステムを作った某企業が募集していた作詞コンテストに応募。
すっかり忘れた頃に最多応募数のJ‐POP部門で最高賞受賞のお知らせ。
お披露目は、山口きらら博だった。はじめまして、山口県。
コツコツやっていると、なんだか芸能関係の知り合いが増え、クリエイターの集まりに参加するようになり、そして私は勇気を出して某レコード会社が通年やっているオーディションにそっと応募した。
これが本人ビックリ親もビックリ。
審査を通過して、通過者だけのコンペに参加することに。
テーマは「父」。うわあ、一番厄介なのがきた……。
父と私は水と油の関係性。病気の原因も「父との関係」が一番大きかったから、なおさら。
難産だった。
でも提出した。
当時五人くらいでコンペをしていたのだが、最初に選ばれたのは私だった。
「打率は三割でいい」
この時のディレクターさんのコトバは、私のお守りになっている。
完璧じゃなくてもキラーフレーズがあれば成功なんだと。
この時の私は、うつ病だと診断されていたが
・作詞をする
・ラジオDJの学校に通う
・お遊びバンドでボーカルをする
・趣味でバスケットボールを始める
と非常にアクティブな患者だった。
どこかおかしいと思いつつも、精一杯生きていた。
■病気が私の邪魔をするけれど、新たな夢が叶う
突然大波が襲い、私を飲み込む。
全く動けない日々が続いた。作詞もできなくなった。
死を考えた。実行に移し、救急車で搬送された。
そういう大波と、調子のよすぎる大波を繰り返しているうちに、うまくいかないことも増えてきた。
作詞も最後の最後まであがいたが、ディレクターさんに
「今は身体を治すことを考えて」
と言われた。
作詞ができなくなった。コトバが出てこなくなった。
ラジオDJやナレーションのお仕事はちょくちょくやっていたが、やはりフェードアウトする形になった。
やりたいことは沢山あるんだ。
でも死にたい。でも死ねない。
矛盾を抱えたまま、中学時代冗談交じりに言っていた「モデルになりたい」という夢と向き合うことになった。
友人から「旅行雑誌の読者モデルやりませんか?」と言われ、友人の友人(旅行雑誌の編集者)を紹介されたのだ。
それからは、情報誌の専属モデルや広告モデルなどを経験した。
何だか不思議な人生だ。
色んな体験をして、またコトバを書きたくなったのだ。
今度は「小説」という形で。
初めて小説を書いたのは二十八歳。
未完の大作。色々なことを詰め込み過ぎて、春編、夏編、秋編と進めていくうちに百万文字以上になっていた。
終わらない……この感覚は、漫画を描いていた時と似ている。
オチが浮かばない、というわけではなく、飽きてくるのだ。
次に書いた小説は、ちゃんと終わらせることができた。
二十九歳のはじまりに書いたものである。
そして三十歳。
今の夫と出逢ったことで、色々なことが加速していく。
まず、病気のことが明らかになる。
うつ病ではなく、双極性障害であると判明。
気分の高揚とうつを繰り返す、躁うつのことだ。
小説ブログを一度閉鎖し、インターネットの世界から消えた。
次に小説を書いたのは、三十五歳くらいの頃だったと思う。
しかし、一年くらいでまた姿を消した。
消えたりしていたのはネットストーカーのせいだった。
あれは今思い出しても厄介。
トータルで二年強小説を書いてみて、学生時代にもっと学びたかったことが次々と浮かんでくる。
「なるほど、私はこうありたいんだな」
という輪郭が見えてきた。
この夢を叶えるためにはどうしたらいいのだろう。
片っ端からインターネットで情報収集した。
そう、次の夢は「今まで歩いてきた道の集大成」である。
そのためには大学卒業の資格が必要になってくる。
通信で三年次編入ができる大学がいくつかある。
ある程度目星はつけているので、お金と時間をうまく使って大学卒業の資格を取ろうと思う。
■大卒の資格をとったら
じゃあ何になりたいんだ、ということだけれど
「コトバってなあに?」
ということを研究したい。
表現としてのコトバは今、小説やエッセイというツールを得ている。
学問としてのコトバ。コトバは変わっていく。流行がある。
そういうことを大学院で研究して論文を書き、そして
NHK放送文化研究所(通称:文研)
国立国語研究所
https://www.ninjal.ac.jp/
どちらかに就職したい。
いつになるかは分からないけれど、かなえたい夢だ。
■振り返ると、大きな森になっていた
あの時、漫画家を目指さなければ「ストーリーを考えること」をしなかった。
あの時、脚本を書かなければ「コトバの奥深さ」を知ることはなかった。
あの時、日本語日本文学科に通わなければ「コトバとは」と考えることはなかった。
あの時、作詞家を目指さなければ「コトバと向き合うこと」をしなかった。
あの時、ラジオDJをしていなければ「伝えるコトバに触れること」はなかった。
そして今、小説を書いていなければ「コトバの使い方、伝え方」を考えることはなかった。
モデル活動は、人前に出るための練習だ。
歩いてきた道は時に分かれたりもしていたけれど、振り返ると蒔いた種が育ち、大きな森になって私を守ってくれている。
この森を今度は私が守りたい。
コトバへの恩返しがしたい。
これからも寄り道しながらかもしれないけれど、私は私だけの道を歩いていく。
――高校時代に書いた脚本のタイトルは、『あるくひと』。