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【短編小説】「ぼく、おかき。」

航大こうだいくん、看板犬を飼う気はないの?」

 僕の淹れたオリジナルブレンドの入ったカップを口元に運びながら、店の常連の永井ながいさんがさらりと言った

「え? 犬ですか?」
「うん。昼のドッグカフェタイム、人気でしょう? ワンちゃんたちがくつろげる場所として定着してきたし、店の雰囲気にも合うと思うんだよね。看板犬がいたら、もっといいお店になるんじゃない?」

 永井さんからの提案に、僕は面食らい、そして戸惑った。
 僕はこの神楽坂の街でカフェを経営している。と言っても、まだオープンして一年ちょっと。ようやく街の人たちに受け入れられたところの新人だ。

「でも、僕はもう犬を飼わないって決めてて……」
 永井さんはカップを置き、じっと僕を見た。
「昔、飼ってたんでしょう?」
 胸の奥に、わずかな痛みが走り、視線をカウンターに落とす。
「……はい。黒い雑種犬でした」

 あの子は、僕にとって大切な家族だった。子どもの頃に拾って、僕の成長をずっとそばで見守ってくれた。どこへ行くにもついてきて、毎晩のようにそばで寝ていた。

 そして――十五年後の冬の朝、静かに息を引き取った。
 悲しくて、つらくて、苦しくて、夢なんじゃないか、目を覚ましたらまた枕元にいるんじゃないかと思い眠っても、あの子は僕のところには二度と現れなかった。
 そのとき決めたのだ。もう二度と、犬は飼わない、と。

「……あんな思いは、もうしたくないんです」
「そうか……」

 永井さんは、ゆっくりとコーヒーを飲み終えて、やがて言った。

「埼玉に、僕の仕事でのお付き合いがある三田みたさんっていう人がいるんだ。すごく丁寧に犬を育ててるんだけど、そこの犬舎に一匹だけ、売れ残ってる子がいるらしい」
「売れ残り?」
「レッドのトイプードルなんだけど、胸元にミスカラーがあってね」
「ミスカラー?」

 本来、血統書が付く犬は単色が理想だが、時々体毛の色がまだらだったり、その子のように胸元に白い毛が混じっていたりすることがある。それをミスカラーと呼び、犬の理想像を競うドッグショーでは評価がどうしても下がってしまう。
 ブリーダー側も、ミスカラーを個体差だと受け入れて譲渡することもあるが、価格を下げていることが多い。
 永井さんの話では、健康には全く問題ないのに、それが理由で飼い主が決まらないらしい。
 その話を聞いて、僕の表情はどうやら随分と険しいものになっていたようだ。

「航大くん、君だから一度見に行って欲しいんだ」
「僕だから、ですか」
「押し付けて『飼え』って言っているわけじゃないんだ。犬が大好きな航大くんに会ってみてもらいたいと僕は思っているんだ」

 永井さんの優しい言葉に、僕は埼玉の犬舎へと向かうことを決めた。

 永井さんにお願いし、コンタクトを取ってもらった三田さんの犬舎は、とても清潔だった。小さなトイプードルたちが元気に走り回っているのが遠目に見える。

「この子です。生後三ヶ月なので、そろそろ社会性も学ばせないといけないんですけどね」

 三田さんが抱き上げた子犬は、レッドのふわふわした毛並みをしていた。くりっとした黒くて丸い瞳。鼻先をひくひくさせながら、じっとこちらを見つめている。
 そして、胸元にはぽつんと白い毛のかたまりがあった。

 ――おかきみたいだな。

 ふと、そう思った。焼きたてのおかき。ほのかに焼き色がついて、ところどころ白い部分がある、あのおかきだ。

 三田さんが、いつ粗相しても大丈夫なようにとペットシーツの上に子犬をおろす。
 僕は小さな身体に合わせて、そこで正座をして「こんにちは」と手を伸ばす。
 子犬は鼻をくんくんとさせて僕の手をあちこち嗅いだあと、ためらうことなく僕の膝へ飛び乗ってきた。そして、安心したようにころんと丸くなる。

「おいおい、初対面だぞ」

 さすがに無防備だろと思ったが、きっと三田さんが愛情を持って育てているからだろう。社会性は特に問題なさそうな人懐こさだ。思わず苦笑いを浮かべてしまう。
 子犬の体は小さくて、温かい。丸まったあと、膝の上で静かに寝息を立てていた。

「この子、人見知りなんですけどね」

 三田さんが驚いたように笑った。
 僕は、そっと眠っている子犬の背を撫でた。小さく呼吸している動きを感じて、懐かしい気持ちになる。

 ――飼うべきか?

 そう考えた瞬間、胸の奥に芽生えた感情に気づいた。子犬に対して「愛おしい」と思っていることに。
 だが、十五年前の記憶が僕をためらわせる。

「すみません、少し考えさせてください」

 僕は子犬を膝からそっと降ろした。子犬は、眠たそうにしながらも不思議そうに首をかしげていた。



 それからの数日は、あの子犬のことが頭から離れなかった。あんなに可愛いのに、売れ残っているだなんて。
 しかし無責任に、簡単に「飼う」なんて言うことはできない。
 そう考えながら閉店後の片付けをしていた時、前掛けのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。

 ――着信は三田さんからだ。

荻野おぎのさん、お忙しいところすみません。三田です』
「こんばんは。大丈夫ですが、どうしたんですか?」
『実はあの子が、ずっと鳴いてるんです』
「鳴いてる?」
『体調は大丈夫なのですが、スタッフの誰が抱っこしても、撫でてもダメで。ずっと寂しそうに鳴いてるんです……荻野さんが帰られてから』

 電話越しの三田さんの言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。

「すぐ行きます」

 再び訪れた犬舎。辺りはすっかり暗くなっていて、田舎特有の草の匂いが強く感じられた。
 子犬はケージの中で丸くなって、小さく鳴いていた。

「くーん……くーん……」

 その声だけで、僕は泣きたくなる衝動に駆られる。
 しかし僕の姿を見つけた瞬間、子犬はぴたりと鳴きやんだ。

 顔を上げ、じっと僕を見つめる。そして小さな尻尾をちぎれんばかりに振った。

「……ああ」

 僕は自然と涙を流していた。
 もう決まっていたんだ、と僕は思った。この子犬はもしかすると、あの子が呼び寄せたのかもしれない。でないと、こんな感情にはならない。

「僕が連れて帰ります。おいくらでしょうか」
「いや、今回はお代はいいですよ。こちらも急でしたし。何よりもその子が荻野さんを求めているのが良く分かりました。その子を幸せにしてやってください」

 三田さんの言葉に、僕は小さく頷いた。
 子犬をそっと抱き上げると、温かい体温が手のひらに伝わる。

「今日から君の名前は『おかき』だよ」

 子犬――おかきは、ぱちくりと目を瞬かせたあと、小さく「きゅうん」と鳴いた。

<了>

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