【ノアール小説】 「es」 episode_001
「史子、史子」
和明が大きな声をあげる。その声で、史子は目が覚めた。部屋の中には、独特の匂いが漂っている。
「史子って呼ばないでって、言ってるでしょ」
「じゃ、玲香も俺を和明って呼ぶなよ。俺を大輝じゃなくて、和明って呼べる意味はわかってんだろう」
和明は、そう言ってから、アルミ箔の上に二粒目の結晶を載せ、下からライターで炙り、煙をストローで吸い込んだ。
「おまえもこっちこいよ、この前、エスきめてやって、喜んでたじゃん」
和明と一緒に住み始めて三週間。そうはいっても、ホストの和明は、毎日、この史子の部屋に帰ってくるわけではない。和明の部屋は解約されておらず、そのことに史子が触れると、「若い奴らの面倒見なくちゃならないから、部屋はそのままにしておくんだよ。俺の立場もわかるだろう」とかわされた。
私は色カノなのだろう
色カノ、つまり色恋仕掛けで行う営業行為の一つとして、相手に「お前は俺の彼女だ」と思わせることである。しかし、史子は気にしていなかった。
この三週間に、史子は一回エスを使った。エスなどと言っているが、所詮は覚醒剤だ。中毒すればどうなるかはわかっている。
常用しなければ、大丈夫。私はいつでもやめられる
そう思いながら、寝る時にはずし忘れていたトノウ・カーベックスを見る。
四時か、今日は同伴で七時半待ち合わせだから、時間がないな。やるときは、ゆっくりしたい
「あたし、同伴だからゆっくりしてられないの」
和明は一瞬不満そうな顔をしたが、すぐに目の前のエスに集中しだした。和明を横目に見ながら、史子はバスルームへ向かった。
こいつとは、もう長くないな。思ったほど、人脈ないし、エッチはうまいけど、こんなにエスばかり喰ってる奴とは別れた方がいいし
バスにお湯をはるため、蛇口をひねる。そのとき、史子はまた、トノウ・カーベックス見た。
これ、一応、フランクミューラーですって感じ。買った時は、うれしかったけど、もっといいやつが欲しい。そのためにはもっと使えるホストを見つけよう
そう思いながら、史子は今日の気分にあったバスジェルを選び始めていた。
和明とは、店では仲のいい麻菜に誘われて行った『クラブ カイザー』で知り合った。麻菜は、そこの遼介に入れあげている。
「私、売り出し中の人が好きなのよね」
そういって紹介された遼介は、ここ三ヶ月で頭角を現し、最近、自分のグループを持ったばかりだ。売れているホストは、指名客が重なる事が多い。そのため、自分がついているテーブル以外の指名客がいるテーブルに、自分の後輩をつける。後輩は飲むことで、場を盛り上げる。この売れているホストと後輩数人を、グループ、または一派という。売上至上主義のホストクラブでは、入店したばかりのものは指名客も少なく、実入りも少ない。そこで、売れているホストのグループに入り、飲むこと、つまり売上をあげることでそのホストに貢献する。その代わり、グループのボスは、食事や住む所などを面倒みてやるのだ。
麻菜としては、遼介のグループから担当をきめてもらいたかったようだが、史子の好みはいなかった。そこに現れたのが和明であった。
「大輝さんは、自分の先輩筋にあたる方で、常にトップをはってるんですよね」
「最近は、おまえにくわれそうだよ」
と笑いながらの余裕の受け答えを見て、史子は、つかえるかもしれないと感じ、翌週、麻菜と行った時に、担当、つまり指名をすることにした。その一週間の間、強引でもない、また、嘆願でもない和明の絶妙な営業にも、好感を持った。
和明は、女の子の心をつかむやり方を、先天的に知っていると言える。しかし普段は、どちらかと言えば線の細いタイプであること、あのときの余裕は、エスがきまってたせいだったことを、つき合いだしてから史子は知った。
ホスト以外に使える男って、誰だろう
西新宿のマンションから歌舞伎町に向かうタクシーの中で、史子は思案していた。
大学一年の秋、今から考えれば笑ってしまうが、通称スカウト通りで、佐山というスカウトマンにスカウトされた。史子は、佐山が他のスカウトマンと違い、ゆっくりとした話し方をすることに好感を持ち、自分にも働く気があったので、佐山が勧める店でキャバクラデビューした。入った店は、史子のような初めて働く子が多く、働きやすかった。しかし、セット料金が安かったため、普通のサラリーマンが多く、彼らのほんどは、細客と呼ばれる来店頻度や使う金額が少ない客だった。当然、売上や指名客数で決定する時給も安く設定されている。その割には、指名客数等のノルマやそれが達成できなかった時のペナルティが多いので、佐山に相談して、三ヶ月で辞め、今の店『クラブ スプレンディ』に移った。
『クラブ スプレンディ』は、セット料金も高額で、サラリーマンでもインセンティブで高給をとっている人、自由に使えるお金を多く持っている自営業や起業して成功した人、そして、いわゆるフロント企業の金融屋や不動産屋が主な客筋である。佐山が、この店を紹介する時「玲香さんだったら、六本木の方がいいと思いますよ」と言われたが、史子は、歌舞伎町にこだわった。たまに遊びに行く六本木よりも、この歌舞伎町には、史子を引きつける何かがある。それが何であるかを史子は自分で確かめたかったのだ。
「クラブ スプレンディはレベル高いから、面接は、厳しいけど、玲香さんのルックスなら大丈夫でしょう。受け答えも上品だし」
と佐山が言っていたとおり、入店してみると、今までいた店の子とは比べものにならないぐらい、どの子も魅力的だった。同じ日に体入して、待機席で仲良くなった麻菜も、胸はあるのに、手足が細くて長い。どちらかといえば、丸顔で幼く見える麻菜だが、性格がおおらかで、さばさばしているところが史子と合った。
「玲香ちゃんって、冷たいって言われるでしょう」
「はっきりいうのね。でも、私、大勢で群れるの好きじゃないの」
「わかる、その感じ。私も嫌い」
麻菜は同じ年だが、高校を出て、そのままキャバクラで働きだしていて、二年も歌舞伎町にいる。歌舞伎町での遊び方から、この世界でやっていくコツまでを史子に教えたのは、担当マネージャーでなく、麻菜だ。
「要は、ネットワークなの。ホストだって、遊びに行くだけじゃなくて、恩を売るのよ。そうすると、ここ一番の時、返してくれるし。客も一緒。一人の客から様々な客を引き出すのが、一番簡単なの」
言葉通り、麻菜は枝を拾うのがうまい。麻菜の客筋は、金融屋や不動産屋だ。これは麻菜が、いわゆる飲みキャラで、彼らのテーブルから場内指名をもらうことが多いからだ。彼らの社長クラスは、大概上位のキャストを指名している。しかし、部長クラスや接待でつれてこられた客はフリーであることが多い。こういう指名客の連れを枝というが、麻菜はその枝を刈り取ることに長けている。しかし、ネットワークのはずのホストには、言葉通りでなく、入れあげる癖がある。
玲香の客は、自営業や起業家が多い。麻菜のようなキャストとしての派手さはないし、店ではあまり飲まないため、金融屋や不動産屋の受けがよくない。しかし、整ったノーブルな顔立ちは、歌舞伎町にはいないタイプであり、媚びない営業スタイルも、彼らの狩猟心を煽る結果となっている。
タクシーはガード下の渋滞につかまっている。待ち合わせの時間に遅れるのは、史子のやり方ではないので、そこでタクシーを降りた。日は落ちているが、東京の六月は、実家の宮城とは比べものにならないくらい暑い。
岡崎さんじゃ、あまりおいしいもの食べられないだろうな
そう思いながら、史子は待ち合わせの喫茶店へ歩いて向かった。
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