what "about" ?
日常会話の中で「多分、おそらく、きっと」といった言葉の不確実性を表す表現を用いることは多分にあるだろう。(不確実性だらけの例文)
数字にも「約、ほど」といった「不確実性→数字の変動」を表す表現があるが、今回はそんな「about」に対する違和感について書く。
違和感を抱いたのは「つくり方」の記載。
引っかかったのは「15秒ほど」と「1分」という時間の表記について。なぜ15秒に対してだけ「ほど」とつくのだろうという疑問だ。
このような記載になっている理由、背景を考えてみる。
まず、人間が脳内で時間を数えるなら15秒より1分の方が難しい、正確ではないというのは確かだろう。(数えたときの誤差を正確性の基準として)
そうなると15秒よりも1分に「ほど」がつくべきだ。
このような記載になるべきだが、このスープを作る際のシーンについて想像してみる。
そこはおそらくキッチンで、近くにはタイマーがあるのではないか?
1分をタイマーで測る場合、その時間は正確なので「ほど」はつかない。そして、わざわざタイマーで15秒を測る人は想像できない。
加えて「すぐに15秒かき混ぜて」とあるように、「すぐに」を達成するにはタイマーで測っている暇などないのだ。
最初に違和感を抱かなかった「熱湯150ml」についても、150mlはカップで測るという状況が想像できるので「ほど」がつかないと納得できる。
この商品を「作った側」に立ち、「使う側」の状況を想像することで(あくまで推測だが)表現の意味がわかってきた。
ここまでは想像する中では合理的な理由(都合?)であるが、他にも合理性から飛躍したものがある。
例えば、不確実性を排除した場合の記載を考えてみる。
どうだろう。
私はこの文章に「忙しさ」のような、急かされているような感覚を覚えた。
逆に、全ての数字が不確実性を孕んでいる場合の記載。
何か自信なさげというか、口説いというか、正直めんどくさい。
現実でもこのような不確実性で保険をかけまくる人との会話があるが、そのときの「わかったからハッキリ簡潔に言えよ」という気分と同じだ。
標準語に織り交ぜられる「知らんけど」に対して抱く不快感も近いものがある。
このように極端な例を考えてみると、文章における不確実性が読む人に対して「緩やかさ」や「忙しさ」を与えていたり、「不快感」に繋がっているとも考えられる。
そして我々はこの不確実性を無意識的に、習慣的に会話の中で用いている。
(ここでは口頭での会話をイメージしている)
何か質問をされた際に「確か〜です」「〜だと思います」「だいたい〜くらいです」「多分〜です」というように、言葉に不確実性を無意識のうちに付与している。
なぜだろうか。
確実に言い切るのが怖いからか?
発している言葉の意味を正確に理解していないからか?
親や友人がそう喋るからか?
おそらくは複合的な理由で、複雑に積み上げられてきた習慣。だから意識するのも、直そうとするのも難しい。
細かいことに神経質になっている自覚はあるものの、正確なことを不確実であるかのように伝えられるのは疲れるのだ。逆も然り。
事実なら「思っている」と言わないでほしいし、事実であるかわからないなら「おそらく」とか「多分」とかを付けて欲しい。
不確実なものは何か考える余地が残って、確実なものはもう考える必要がない。
改めて、自らが使っている不確実性について意識することで「伝わる」「心地よい」会話をしていきたい。
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