学生のうちにしかできないこと
「学生のうちにしかできないこと」とは何だろうか?
海外旅行とか、恋愛・交友とか、ボランティアとか、それっぽいものが一般論であるかのように言われているが、本当に?
(可処分時間の話ばかりじゃないか?)
もう少しメタ的に考えたい、本質を捉えたいと思った。
私は大学(主に卒業研究)で根拠もなく”それ”ができたと思っていたが、果たして何だったのか、何の役に立っているのかはよくわからないでいた。
去年、私は学生から社会人になり、敢えなく無職になるという経験をしたが、そんな中で「学生のうちにしかできないこと」に対して想ったことがある。
そこには、創造的な活動を職業にしている私の一生を支えるような価値があったため、今回は主観的で抽象的な想いを言葉にしてみることにした。
01. おもしろさの追求
私が想った「学生のうちにしかできないこと」とは何か。
それは「主観的な”おもしろさ”を主体的に追求すること」である。
自分が、自分だけがおもしろいと感じたことの意味や価値を自分から追求すること。
学生時代に取り組んだ研究と、会社に入って取り組んだ仕事の比較からこのような考えに至った。
着目したのは「誰のためにやっているか」だ。
会社では「社会のため」「お客様(ユーザー)のため」「同僚のため」と外的な何某かのために物事に取り組む。
一方、学生はそのような外的なもののために行動する必要はなく、100%「自分のため」に頭と体と時間を使うことができる。
実際、私の卒業研究は自分がおもしろいと思ったことの追求の限りである。
この違いは学生の頃からなんとなくわかっていたことだが、実際に社会に出てみると想像以上に、明確に差を突きつけられた。
ではこのような、自分のために「主観的な”おもしろさ”を主体的に追求すること」に私の一生を支えるほどの価値があると考えるのはなぜか。
02. 内発的な創造欲求
創造的な活動を職業にしている私の一生を支えるような価値とは。
私は、自身の中に「内発的な創造欲求」が生まれたことだと考えている。
それは一体何なのかと言うと、「誰にやれと言われずとも、自分で気になることを見つけ、何か創造的活動をする」ための欲求だ。
会社にいれば常に「誰かのため」に行動するため、自身の行動に必要性や必然性がある状態となる。
社会課題を解決するため、社内の労働効率を高めるためなど、ほとんどの創造活動は外発的な創造欲求によるもの。
しかし、例えばいきなり会社が消えたらどうだろう。
そのとき、自身で必要性や必然性を考え、誰に何を言われずとも創造的活動に向き合うことができるだろうか。
これは本当に難しいことだと思うし、実際私も無職になったとき「何のために、何をやれば良いんだろう」と虚無感に襲われることがあった。
「内発的な創造欲求」とは、会社がなくても、課題を与えられなくても自ら”もの”をつくり続ける、原始的なものづくりの精神といったところだろうか。
私はどんな職能の人間であれ、この原始的なものづくりの精神を身につけることで「生きることをおもしろくする」ことができると考えている。
デザイナーだから、ものづくり・制作をする人だからこの精神を身につけるべきだという話ではないのだ。
03. やる理由を自分に依存させる
なぜ「内発的な創造欲求」という原始的なものづくりの精神が、どんな職能の人間であれ「生きることをおもしろくする」のか。
理由をふたつの段階に分けて解説する。
まずは「内発的な創造欲求」が生まれるまでのプロセス。
私の場合それに当たるのは卒業研究での取り組みで、中でも「ものごとをやる理由」に着目して振り返る。
当時、私が研究や制作をやる理由は全て「自分がおもしろいと思うから」であり、社会や他者にとって必要かどうか、有意義であるかどうかは考えないようにしていた。
これは自らの行動に対してやる理由を自分に依存させることになる。
「社会が必要としているから」「誰かが欲しいと言ったから」ではなく、「私がおもしろいと思うから」という行動原理だ。
一見、自分よがりであり簡単で単純な考え方に思えるが、やる理由を自分に依存させることは非常に難しいことなのである。
なぜなら、それは言い訳ができない状態であるから。
社会が必要としていなくても、他者に理解されなくてもやるしかないし、自分が「おもしろさ」に対して抱く疑問を自分で解決しないといけない。
自分の基準で良し悪しを判断するので無数の逃げ道があり、どんな言い訳でもできるように思えるが、このような「やらない理由」も自分から出てきたのなら否定的に捉えることができる。
逆に「社会的に見て」とか「あの人からこう言われたから」と、外から得られる理由ほど考えなしに寄りかかってしまいがちだ。
だいたい、仕事では「行動を示すデータ」や「お客様のご意見」と言った客観的な事実に基づいて行動することになるが、自身が抱く「おもしろさ」という曖昧で抽象的な感覚を基に行動するのは非常に不安定である。
そんな不安定な状態の中、やる理由を自分に依存させて進み続けた先に何があるのか。
04. 本質的に社会をみる
自身が抱く「おもしろさ」を追求して、その追求の先にあるのは多くの場合「他者に伝える」という段階だ。
最終的に「おもしろさ」を真に証明するには客観的な評価が必要になるため、その意味や価値を誰かに伝える必要がある。
そうなった時、主観的に追求していた「おもしろさ」を初めて客観的に、俯瞰的に、相対的に見ることになり、その社会的優位性を考えることになる。
そこで気づくのは「なんとなく見ている社会では、社会的優位性が立証できない」ということ。
ある分野のこと(おもしろいと思ったこと)を追求すると、その”こと”に対する解像度が大きく上がる。
しかし、取り組んだことの社会的優位性や、その分野における位置付けを明確にするには社会に対する解像度は低すぎる状態になる。
この差を埋めなければ社会的優位性の立証ができないため、ここで「本質的に社会をみる」ことが必要となるのだ。
「なんとなくじゃなく本質的に」「外からだけじゃなく内から」と社会をみることが生きることをおもしろくする。
ここでの「おもしろさ」も私の主観によるものだが、生きる中のどこかで主観的な追求や思考がなければ、実態の無い客観、なんとなく姿の見えないものに従って生きていくことになるのではないだろうか。
社会がそうだから、こう言われたからと責任を持たず、失敗から何かを学び得ることも無くなっていく。
自分の意思、思考、選択により「自分の足で人生を歩む」ことは人生をおもしろくするための前提であり、変化を感じる過程そのものがおもしろい。
どこかで共感されない、否定されるかもしれないことを振り切って主観的に生きてみる。
学生から社会人になって、そこから無職になって、今思うのは「そんな挑戦は学生のうちにやっておきたい」ということだ。
05. まとめ
ここまでなんとか言葉してきた主観的で抽象的な想いをまとめてみる。
書いているうちに浮かんできたことだが、大人になるにつれ「主観ではなく客観的に〜」という考えになりがちだが、そもそも主観だ客観だと言っても個人が主観から抜け出すことは不可能なことだ。
どこまで言っても個人が吐き出す情報は主観によるものでしかない。
その上で意識するべきことは「主観を洗練させる」ことではないかと思う。
(この主観をなんとなく「メタ主観」と呼ぶことにした)
この考えの上で「学生のうちにしかできないこと」をまとめると「主観を洗練させるためのスタンスを獲得すること」になるのかな。
まとまらないまとめになってしまったが、研究を控えている学生、研究が終わって卒業を控える学生、学生を振り返る社会人にとって何か考えるきっかけになれば嬉しい。
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