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知らない人とする鑑賞が個人的にキテる

鑑賞には三つのスタイルがあると考えている。

一つ目は、一人で対象に向き合う「一人称の鑑賞」。誰にも邪魔されず、自分の思考に集中しながら鑑賞することで、内面的な発見を得ることができる。

二つ目は、知っている人と一緒に行う「二人称の鑑賞」。意見を交換し、互いの視点を共有し合いながら、新たな気づきを得るのが特徴だ。

最近、私が特に注目しているのが、三つ目のスタイルである「三人称の鑑賞」だ。

これは知らない人と共に行う鑑賞であり、直接的なコミュニケーションをとらないながらも、他者とのゆるやかな繋がりを感じることで生まれる独特の感覚がある。


三人称の鑑賞への気づき


ある日の体験から、この「三人称の鑑賞」の価値を強く感じた。

自宅のベランダから花火を鑑賞していた時、遠くに住む知らない人々が同じ花火を見ているらしく、彼らの歓声や拍手が聞こえてきた。

顔も名前も知らない彼らとの間に、見えない繋がりを感じ、鑑賞しているという行為そのものが共有されているようだった。

これは一人称の鑑賞や二人称の鑑賞とは全く異なる体験だった。

自分だけで対象に集中していたり、知っている人と共に感想を交換するのとは違い、知らない他者と「見ている」という行為そのものを共有することで、鑑賞そのものに新たな深みが加わったように思う。


メタ的視点としての三人称の鑑賞


一人称の鑑賞の中で、他者の表情や動き、言動などを観察することで、三人称の鑑賞に変化する瞬間がある。

たとえば、映画館で自分と同じタイミングで笑ったり驚いたりする他者の動きに気づくと、その時点で自分の視点だけでなく、他者を通して鑑賞している自分自身も捉えるようになる。この「メタ的な視点」が、三人称の鑑賞を成立させる要素だ。

対象を見るだけではなく、自分が鑑賞しているという行為そのもの、そしてそれを周囲の他者と共有している状況を意識することで、鑑賞がより広がり、深いものとなる。

知らない人との鑑賞でしか得られないこの感覚は、意図的に生み出せるものではなく、見ている対象や周りの人によってコントロールされている。


三人称の鑑賞の価値と日常への応用


この感覚は、鑑賞という行為に限らず、日常の中で様々なシーンで生じる可能性がある。

街中で夕陽の美しさを無言で共有する瞬間や、かわいい猫を地域の人と見守っている瞬間。これらもまた、三人称の鑑賞と同じ価値を持っているように思う。

さらに、インターネット上でもこの感覚は現れている。niconico動画やYouTubeのコメント欄で他の視聴者の意見を読むときは、無意識に三人称の鑑賞をしている。

自分と違う意見を見て、自分の考えが広がる瞬間は、三人称の鑑賞が持つ豊かな価値のひとつである。




現状では、三人称の鑑賞から得られる価値を正確に捉えることができていないが、そこに一人称・二人称の干渉にはない価値があるのは確かだ。

これからも、日常の中でこの三人称の鑑賞を意識的に体験し、さらに探求していきたい。

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