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『きおいもん』 第三話

○馬琴の屋敷・書斎
 縁側に座る馬琴。  
馬琴「(大声で)みち! みちはおるか!」
 虚をつかれ、困惑する西村屋。
 庭の反対側の襖をスっと開く、
 馬琴の義理の娘、みち(36)。
みち「はい」
 馬琴、無言でみちに合図を送る。
 みち、書机の前に座り、速やかに筆を用意する。
 とまどう西村屋。
馬琴「(目を閉じ)伏姫は思ひかけなく、竒しき童に説き諭されて、無明の眠り覚めながら、夢かとぞおもう跡とめぬ、人の言葉のあやしきに、
なほ疑いははれ間なき、涙の雨にしきたへの、袖はものかははらわたを、絞るばかりにむせかへり……」
 馬琴、とうとうと八犬伝の筋を語る。
 みち、達者な筆さばきで、美濃紙に書き連ねる。
 あっけにとられる西村屋。
 ×      ×     ×
 正座が崩れている西村屋。
 みち、美濃紙をまいて紐を結ぶ。
 馬琴、縁側で庭を眺めまま、
馬琴「今度からは下書きでなくとも結構だ。自信があれば、清書で構わん」 
 みち、西村屋に巻物を差し出す。
西村屋「……ありがとうございます!」
   
○永寿堂・客間(夕)
 上座の重右衛門、驚きと喜びの声。
重右衛門「本当ですか!」
 日が落ちかけ、行燈のついた客間。 
 重右衛門の前、三方に載せられた巻物。
 開け放たれた障子の傍、西村屋、庭を眺めつつ、
西村屋「はい。それはもう一目見た瞬間に、素晴らしい。と。いやあ流石です広重先生。実はこれまで何人もの絵師を紹介していたのですが、誰一人、馬琴先生の納得のゆく者はおりませんでした」
 重右衛門、興奮ぎみに、
重右衛門「では、私が、八犬伝の……」
西村屋「(振り返り)そちらが八犬伝、第七集、一巻目の正式な稿本でございます」
 重右衛門、稿本をみつめて、
重右衛門「……一巻だけですか?」
 西村屋、めんどくさそうに障子を閉めながら、
西村屋「はい。続きは、頭の中にしかないと。おいおい、仕事を進める中で、渡してくださるそうです。七集は、全部で七巻とのことです」
重右衛門「……七巻(少し不安気味)」
 西村屋、重右衛門の側に座り、
西村屋「一巻につき一両、全部で七両、画代としてお支払いいたします」
重右衛門「!」
 金額の多さに、目がひらく重右衛門。
西村屋「一巻目には六つの挿絵が欲しいとのことです。そちらを三日後に」
重右衛門「三日! そんな無茶な!」
 思わず叫ぶ重右衛門。
西村屋「いえ、描き上げた分だけで結構ですので。もし、正式にお受けいただいたら、これから三日おきに馬琴先生の元へ、挿絵をみせにいくということです」
重右衛門「……しかし、それも出来ません。私には、勤めがありますし」
西村屋「私が、馬琴先生の元へ参りますので。安藤様は、お勤めの行き帰り、その都度、こちらに寄ってもらえらば。ここだけの話、馬琴先生はたいそう人見知りで……直接のご挨拶なども結構とのことです」
重右衛門「……そうですか……ならば」
 重右衛門、稿本をみつめる。
西村屋「私共も、正式にお願いしたいところなのですが、実は一つ、馬琴先生からお願いがございまして……」
重右衛門「……お願い?」
西村屋「……はい。完成した際、挿絵の画工の名は、『北斎』にしたいと」
重右衛門「……ほくさい?」
西村屋「私共版元としましても、分からない話ではありません。画工が北斎となれば、売れ行きは跳ね上がります。また、読本の挿絵は幾人か共作しても、画工として記すのは、その中の名のある絵師、一人だけ、ということも多々ございます……」
 重右衛門、唇を噛む。
重右衛門「……私に、北斎のニセ物を描けと」
西村屋「そんな大げさな。北斎先生の名前をお借りするだけです……」
 立ち上がり、下座に歩きながら西村屋、
西村屋「広重先生は、絵師である前に、お侍の御生れ。このような、仁義なき迷い事、お許しになれないことでしょう」
 西村屋、下座に座りながら
西村屋「私の生まれは、本所の小さな履物屋です。こちらに十一で養子に取られました」
重右衛門「……」
西村屋「それから義理の父、先代から、版元の心得を教わったのですが、やれ口が悪い、目が悪い、覚えが悪い、手前で選んで養子に取っといて、育ちが悪いと。さんざん嫌味を言われました……」
 西村屋、重右衛門を見据えて、恫喝するように、
西村屋「ただ一つだけ、感心されたところがございます。あきらめが悪いところでございます!」
 西村屋、畳に手をついて、
西村屋「この機を逃せば、八犬伝は、またいつ出せるか分かりません! 広重先生には不躾極まるお願いであること重々承知しております。その上で、どうか何とぞ!」
   重右衛門、か細い声で、
重右衛門「……画代は、先ほどの額を、いただけるのですね」
西村屋「もちろん。なんなら色をつけて」
重右衛門「……私からも一つ、お願いしてもいいですか?」
西村屋「なんでしょう?」
重右衛門「(伏せ目がちに)画号で呼ぶのをやめて頂きたい。……豊広先生に、申し訳が立ちません」
西村屋「(ニンマリ)かしこまりました。安藤様」

○永寿堂・店前(夜)
 すっかり日が落ち、閉店中の永寿堂。
 九兵衛、西村屋、重右衛門、店から出てくる。
 九兵衛、持っていた提灯を重右衛門に渡しす。
西村屋「私どもとしましては、里帰りする者たちの土産となるように。なんとか年の瀬までに売り出せればと思っております。お勤めの合間でも充分間に合うことでしょう。何卒どうかよろしくお願いします」
 提灯の灯に照らされた西村屋の笑顔。
重右衛門「……」

○重右衛門の屋敷・外観  
 月のない夜空。戸を開ける音。

○同・玄関内
 玄関に入る重右衛門。
 トキ、やって来て、三つ指をつく。
トキ「おかえりなさいませ」
 黙ったままの重右衛門。
 トキ、頭を下げたまましばし待つ。
トキ「……?」
 ゆっくり頭を上げるトキ。
 重右衛門、子供のような顔で涙ぐんでいる。
重右衛門「(涙まじり)ただいま」
トキ「……どうされました?」
 重右衛門、框にトキに背を向けて座り、
重右衛門「いや、なんでもない……トキの顔をみたら、なんだかな。咲は?」
トキ「もうおやすみです」
重右衛門「……そうか。あのな」
 トキ、重右衛門を遮るように、
トキ「火消し屋敷で何かございましたか?」
重右衛門「あ、違うよ」
トキ「与力様に、また怒られたのですか?」
重右衛門「(微笑)違うって」
トキ「臥煙らがまた、歯向かって来たのですか?」
重右衛門「違う違う! 今日は勤めでは何も
 なかったよ。もう……トキには敵わないな」
トキ「申し訳ございません。つい……」
重右衛門「これからも、何卒よろしく頼むな。私のことも。咲のことも」
トキ「重右衛門さま……」
 トキ、切ない顔で言いよどむ。
 重右衛門、自分に言い聞かせるように、
重右衛門「咲は養子に出さない」
トキ「え?」
重右衛門「……私がなんとかする」

○裏長屋の路地
 秋風が吹き始める裏長屋の路地。
T「一ヶ月後」
 地べたに座りこみ、
 地面に枝きれで絵を描いている芳三郎。
 芳三郎の前方に集まっている子供たち。
 長屋の軒先に昼寝している描。
 芳三郎、子供たちの間から猫をみつつ、
 地面に右手で描いている。
 芳三郎の右腕、添え木はないが、
 さらし布は巻いてある。
芳三郎「(子供たちに)……どうだ?」
 子供たち、地面の絵をみながら、
子供A「いいんじゃねえか」
子供B「だいぶ上達したな」
芳三郎「……よし。ありがとな」
 芳三郎、立ちあがって歩き出す。
 子供たち、芳三郎の背中を見送る
 子供たちの一人、興奮し、
子供C「すげえなあの人! 逆さに描いてもうめえや!」
 地面に描かれた猫は、
 子供たちから見た向きで描かれている。
子供A「近頃いつもココで練習してたんだ」
子供B「うん。初めは俺の方が上手かったぞ」
   
○馬琴の屋敷・書斎
 書斎で正座している西村屋。
 開け放たれた障子、縁側に座る馬琴。
 馬琴、縁側の廊下に絵の束を置いて、
馬琴「ではまた。三日後に」
 置かれた重右衛門の絵、
 朱墨で添削され、大小のバツだらけ。
 西村屋、いら立ちを抑え、頭を下げる   
   
○永寿堂・客座敷
 廊下から荒々しく障子を開ける西村屋、
 絵筒を畳に叩きつける。
西村屋「あのジジィ! 北斎じゃねえって気付いてるんじゃないか?」
 九兵衛、廊下からやって来て、
 畳に転がった絵筒を拾う。
九兵衛「……だったら、わざわざこんな面倒なやりとり、しないと思うんですけど。三枚は、認めてもらえたんですもんね?」
西村屋「三枚だけだ! 二枚は何度も描き直しだし、残り一枚は安藤がまだ描けてねえ! 勤めもあるが、あのきおいもんと比べちゃ可哀想だが安藤は筆がお遅い! この調子じゃ、年の瀬どころか、来年の盆も無理だ!」
九兵衛「山林堂さんの二の舞ですね……あ、そういやさっき、店に芳三郎が来ました」
西村屋「……ん? そういやあいつ、右手どうだった?」
九兵衛「だいぶ動くようになったって」
西村屋「……絵はみたか?」

○永寿堂・店内  
 台帳を開いている西村屋と九兵衛。
 台帳の余白に子供、動物などの絵。
九兵衛「やめてくれっていったのに無理やり」
西村屋「……なんとかいけるな」
九兵衛「そりゃ絵草紙ぐらいなら」
西村屋「九兵衛、使いの者を、いせやにやれ。芳三郎みつけたら、すぐ店に連れてこいと」
 九兵衛、めんどうそうに、
九兵衛「え、また仕事やるんですか?」
西村屋「二分の仕事だ」
九兵衛「えええ? そんな大きい仕事を?」
西村屋「そのかわり年の瀬まで毎日だ」

○江戸の町・鉄砲洲あたり(日替わり)
 
下級の御家人たちが多く住む武家町。
 芳三郎、紙片の地図を片手に、
 古びた文机を肩にかついで歩く。
 通り過ぎる侍たち、芳三郎を珍しげに振り返る。

○重右衛門の屋敷・前
 屋敷の前にやって来る芳三郎、
 地図と門の表札を確かめる。
 門の奥、玄関前を掃除するトキ。
芳三郎「(トキに)お。安藤さんかい?」
 トキ、不審な目。

<第四話につづく>


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