超有名女優の前で演技をした話

*以下、本人のプライバシーを守るために具体的な日時や場所をあえて曖昧にしています。

 十一月某日、都内某所の某劇場のロビーで某有名女優を偶然見かけた。
 冒頭からぼうぼううるさいかもしれないが、最後にはこの有名俳優(女優)の名前をちゃんと明記するので、どうか付き合ってほしい。先に断っておくと、この女優さんの名前でボケて話のオチにするつもりは一切なく、本当にその人は日本を代表する女優さんだった。

 僕は、お芝居を見終わった観客でごった返す劇場のロビーにいた。すると目の前をすっと歩き去る美しい横顔があった。それを見た瞬間心のなかで「あの人だ!」と快哉し、次の瞬間にはまるで何か取り憑かれたように、とはありきたりな表現だが、本当に何か抗い切れない不思議な求心力に体を支配されるようにして、彼女のうしろを歩き始めたのだった。
 しかし数メートルも行けば、自分の見苦しさに気づく。こうして金魚の糞になることはストーキングとなんら変わらない。
 だからといって、ここで思い切って彼女へ喋りかけることもはばかられた。この日の彼女はロビーに溢れかえった観客のなかにいたのだから、あくまでもお芝居を見に来た一般客だった。友人らしき人物とも歩いていた。どうやらプライベートのようだった。
 僕は悩んだ。
 金魚の糞が唐突に喋りかけるのは、やっぱり気持ち悪いか?(ストーカーとは喋るウンコのことである)。
 素直にここは身を引こうか?
 ……うん、そうしよう。
 とも思ったのだが、別に顔を見るくらいよくね? とも思ってしまった。日本を代表する女優さんの横顔をちらと見ただけで帰るのは、さすがに惜しかった。
 ということでプランを立てた。まず目の前を歩くその女優さんを一気に追い越す。次いで数メートル先を行ったところで足を止めて、ポケットからスマホを取り出し、その画面を見ながら「えーと、待ち合わせ相手はどこにいるんだ?」という顔をつくって、辺りをキョロキョロ見渡す。その流れで、がっつり彼女の顔を見る!――これだ、と思った。
 僕はさっそく行動に移った。
 彼女の背中をしっかり捉える。
 ギアアップ。
 何食わぬ顔で彼女を追い越す。
 本当はこの瞬間にも彼女の顔を見たくて仕方なかったのだが、向こうからしてみれば、首をひねってずっと自分ばかりを見て通りすがって行くような歩行者は、宇宙人にしか見えないだろう。僕は高速道路の合流ばりにグイッとひねりたい首を死に物狂いで前に固定して彼女を追い越すと、予定通り数メートル先で一旦停止、からのポケットからスマホ。
 よし彼女の顔を見るぞ。
 視界の片隅に、友人と談笑しながら歩いて来る大女優のオーラを感じ取った。僕は必要なかったが、自然な動きを演出するためにスマホの電源ボタンを押した。そしてその直後に彼女の方向を向いては不自然だと思い、一度彼女が来る方向とは真逆の方向を見るという小芝居を入れる。そして遂に僕は首をグイッとひねって、歩いて来る彼女の顔を見据えたのだった。
 そしたら、めちゃくちゃ目が合った!
 視界に華が咲いた。僕は目の前に迫った大女優――南果歩さんの威風堂々とした雰囲気と品のある表情、寸分の隙のない姿勢につい見とれてしまった。
 彼女が歩み寄ってくる時間は永遠に思われた。しかし彼女が立ち去るのも時間の問題で、すれ違った直後にはすでに過去の永遠は刹那にしか思えなかった。彼女はまるで花火だった。夜空に花開いた瞬間には音がないのに、その超越的で巨大な美しさに意識が呑み込まれ瞬間、突然の轟音が耳をつんざき、美が破壊的な衝撃となって全身を震わせる。そしてそれはすぐに夜に消える。
 静からの動、訪れる虚無。 
 僕は華奢なのにとても大きく見える南さんの背中が廊下の角に消えるまで、その無常の景色をつい傍観してしまったのだった。
 
 さて、実をいえば、僕が振り向いた瞬間にはすでに南さんの方が僕に視線を合わせていたようだった。その点が気になった。
 さらに重要な事実として、南さんは一切変装の類をしていなかったので、周囲の人たちもノーマークだったのか、ほとんど気づいていなかったわけだが、一人だけ気づいた中年女性が僕とほとんど同じような行動パターンで(一度追い越して、Uターンしてがっつり顔を見て)、南さんだと確認すると、夫らしき男性に「へえ、ふつうにいるんだね」と嬉しそうに報告していた。
 こうした点を踏まえると、きっと僕やその中年女性のような勝手に泳ぎ出してしまう金魚の糞が南さんの周りにはたくさんいるから、僕の「待ち合わせ中」の演技にも彼女は強烈な違和感を抱き、僕が彼女を見るよりも早く、こちらを注視していたのかもしれないと考えられた。要するに大女優の目に僕の演技は通用しなかったということだ。 
 しかし冷静に考えてみれば、僕は畏れ多くも日本を代表する大女優さんの前で、迫真の演技を披露してしまったということになる。テンションがマジ上がる。
 あと、気のせいかもしれないが、南さんはすれ違いざまに僕の耳元でこう囁いてきたような気がする。
「まだまだ、ね」
と。
 ほんと、言ってた気がする。 

 
  
 
 

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