寛容と不寛容
寛容は不寛容に対して不寛容になるべきか。
自分と異なる多様な価値感を認め、ひとりひとりの違いを包み込む「ダイバーシティ」や「インクルーシブ」という言葉をよく目にするようになった。これからの社会でますます重要になる考え方である。金子みすゞの言葉を借りれば「みんな違って、みんないい」。しかし他者に対して「寛容」であることは実は言うほど簡単なことではない。まず、寛容は無関心とは違う。寛容であるためには、同じ人間同士でも世界の捉え方(環世界)は千差万別であることを知り、自分の正しさの限界や自分とは違う正しさがあるかもしれない可能性に想像力を働かせることが必要なのである。
一方で、どこまでも寛容であろうとすると、どこかで冒頭のような矛盾した問いに行き当たってしまう。不寛容を寛容すれば、不寛容が蔓延するのを防ぐことができないし、かといって不寛容を寛容しないと、それはもはや自らが不寛容であることになってしまうのである。揺るぎない不寛容を前に立ちすくむ寛容。寛容と不寛容との間にはそんな非対称な構図があることをまずは頭に入れておきたい。そもそも寛容は不寛容に対して分が悪いのである。
寛容のパラドックス
「はじめて考えるときのように」でも「反証主義」について紹介した哲学者カール・ポパーは『開かれた社会とその敵』の中でこのパラドックスに触れている。
「寛容のパラドックス」についてはあまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。
もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。
ポパーの態度ははっきりしている。寛容は不寛容に対しては不寛容になるべきだと。
対して、フランス文学者の渡辺一夫は『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』という、まさにそのものずばりなタイトルのエッセイの中で次のように対照的な意見を述べている。
過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいという筈はない。
不寛容に報いるに不寛容を以てすることは、寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるにすぎないのであるし、たとえ不寛容的暴力に圧倒されるかもしれない寛容も、個人の生命を乗り越えて、必ず人間とともに歩み続けるであろう、と僕は思っている。
寛容は寛容によって護らるべきであり、決して不寛容によって護らるべきでないという気持ちを強められる。よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし、我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いと思わねばなるまい。その上、寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ柔らげるに違いない。不寛容によって寛容を守ろうとする態度は、むしろ相手の不寛容を更にけわしくするだけであると、僕は考えている。その点、僕は楽観的である。
渡辺一夫はあくまで寛容は不寛容に対しても寛容であるべきだという。寛容は不寛容に滅ぼされるのではなく、自らが不寛容に陥ることで自滅するのだと。
二人の主張は一見対照的だが、少なくとも寛容であるべきだという点は一致しているし、いずれからも見えてくるのは、寛容であることの難しさである。仮にポパーの言うように、寛容は不寛容に対しては不寛容であるべきだとして、具体的にどのような手段なら許され、また効果があるのか。逆に渡辺の言うように、あくまで寛容は不寛容に対しても寛容を貫くべきだとして、では(特にこのソーシャルメディアの時代に)不寛容の蔓延をどう防ぐことが出来るのか。できれば何事にも寛容でありたいものだが、不寛容を目の前にした時、寛容はどう振る舞うべきかはとても難しい問題なのだということに改めて気づかされる。
しかし、たとえそれがどちらにも答えがないアポリア(難問)だとしても、不寛容が行き着く先としての戦争の時代をリアルタイムに生き(カール・ポパーは1902年生まれ、渡辺一夫は1901年生まれの同世代であり、ポパーは1945年に、渡辺は1950年にそれぞれ上に引用した文章を書いている。ちょうど大戦が終わり、そしてまた朝鮮戦争が始まろうとする頃である)、不寛容の暴力に対する寛容の無力さを肌で感じながら書かれたであろう対照的な二人の言葉に触れること、そして今、例えばヘイトスピーチやトランプやブレグジットのような不寛容に対して、ポパーなら、渡辺一夫ならどう考えただろうかと想いを巡らせてみることは決して無意味ではないはずだ。
「正しさ」を内に、「寛容」を外に
さて、ここでもう一度取り上げたいのは、「世界に変えられてしまわないために」でも紹介したガンジーの言葉である。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。
(マハトマ・ガンジーの言葉より)
それぞれの「正しさ」や「価値観」はそれぞれの内面にあるもので、それが世界によって変えられてしまわないために人は「つくる」のだ、とわたしは考えている。
対して「寛容/不寛容」とは、必ず他者との関係の中に現れるものであり、自分の「内」ではなく、自分の「外」にあるものだと思う。ガンジーの言葉で言えば、その内なる「正しさ」や「価値観」で世界を変えようとしてしまうと「不寛容」が姿を表すのだ。(もし無人島でたった一人なら寛容も不寛容もないだろう。)
つまり、内なる「正しさ」と外への「寛容さ」は本来切り分けて議論されるべきだと思うのだが、しばしばそれが混同され、交わらない議論が生じてしまう。例えば、今議論となっているあいちトリエンナーレについていえば、あくまで「寛容さ」を議論しようとするアートの側に対して、不寛容派はそのアートの「正しさ」を議論しようとして交わらないのだ。
付け加えるならば、寛容派にもその混同は起きがちである。「自分とは違う正しさ」を持つ人に対して寛容な人も、逆に「自分と同じ正しさ」を持つ人の不寛容さに対して不寛容だったりする。(話がややこしくなってきたが)要するに、国連で気候変動対策に対して怒りを露わにした少女に対して、気候変動対策の「正しさ」を議論するのではなく、彼女の「不寛容」な態度(怒りを露わにしたこと)への批判が起きてしまったりするのである。議論すべきはそこではなく気候変動対策のはずなのだが、「わかるけどそのやり方には賛成できない」というのは「正しさ」を議論するより楽で、気をつけていないとついやってしまいがちなのである。(ただし、さらに付け加えるなら、そういう言い方にもまた寛容でなければならないが。)
話が随分ややこしく禅問答のようになってきてしまったが、最後に、ニュージーランド議会での同性婚を巡るスピーチを紹介したい。一時期Twitterで話題になったのでご覧になった方も多いかもしれない。
このスピーチが素晴らしいのは「正しさ」と「寛容さ」を丁寧に切り分けているところではないかと思う。同性婚賛成派の「正しさ」を訴えるのでも、反対派の「正しさ」を否定するのでもなく、あくまで「寛容さ」だけを求めること、そしてそれが不寛容な人たちの世界を変えてしまうものではない、ということだけを、ただただ丁寧に、時にユーモアを交えながら伝えることに終始しているのだ。「明日もまた日は昇る、怖るるなかれ」と。
「正しさ」と「寛容さ」の議論を丁寧に切り分けること。不寛容の裏返しとしての「恐れ」を取り除くこと。もしかしたら、これらが寛容と不寛容の対話のヒントになるのかもしれない。
誰に頼まれているわけでもないのに、出来れば避けて通りたいような難しいテーマを選んでしまい、とても時間がかかってしまった。それでもわかりにくかったり、異論反論もあるかもしれないが、是非一つ寛容な気持ちで読んでいただければ幸いである。
【追記】初めての単著『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』がBNNから2021年5月21日に発売されました。行き過ぎた現代のテクノロジーは、いかにして再び「ちょうどいい道具」になれるのか——人間と自然とテクノロジーについて書いた本です。[第5章 人間と人間]ではこの記事にも触れています。