ワカンナイ(Can’t Grasp It)
『情報環世界』の執筆中、家に帰ってもわかるだのわからないだのと話をしていたら、妻が「そういえば陽水さんの歌にそんな歌あったよね」と呟いた。確かに「ワカンナイ」という曲がある。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に対する井上陽水さんらしいアンサーソングである。調べてみるとこの曲にまつわるエピソードが沢木耕太郎さんのエッセイに綴られているというので気になって読んでみた。
「あの‥‥雨ニモマケズ、風ニモマケズ‥‥っていう詩があるでしょ」
あまり思いがけない話だったので一瞬ぼんやりしてしまったが、すぐに態勢を立て直して言った。
「宮沢賢治の、あの有名な?」
「そう」
「その詩がどうかしたの?」
「あれ、どういう詩だっけ」
(沢木耕太郎『バーボンストリート』より)
「雨ニモマケズ」を元に曲をつくろうとした陽水さんだが、その先が思い出せずに友人である沢木さんに電話をかけてきたらしい。沢木さんは、なんだそんなことかと暗誦し始めるのだが「雨ニモマケズ、風ニモマケズ‥‥」と、どうしてもその先が出てこない。わたしもこのエッセイを読みながら思い出そうとしてみたが、そう言われると確かにぼんやりとした内容は思い出せるものの正確な続きのフレーズが咄嗟に出てこない。皆さんはどうだろうか。
「耳」で読み、語り直す
おっと、ここですぐにググろうと考えてはいけない。なにせこれはスマホもGoogleもない1982年の話なのだ。何度も思い出そうとするもののどうしても続きが思い出せない沢木さんだったが、なんとか期待に応えようと(あくまで家の中のどこかに本があるような素振りで)「調べて折り返すよ」と伝えると、電話を切るなり、隣の駅にある閉店間際の本屋まで自転車を飛ばしてなんとか賢治の詩の載った詩集を見つけるのだ。そして、家に戻るなり(なんでもないような声で)「あったよ」と電話をかけ、電話越しに賢治の詩を朗読するー。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾(ヨク)ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
陽水さんは電話の向こうですべて書き写すでもなくそれを聞きながら、ところどころで独り言のように呟く。
「いつも静かに笑っている、か‥‥」
「自分を勘定に入れず‥‥か、勘定に入れずなんて凄いセリフだね」
「カヤブキ小屋ね‥‥」
「日照りに‥‥涙か‥‥」
教科書で出会って以来、言われてみればこんなに一言一言、真剣に読んだことはなかった。「予測する脳」の話で言えば、いろんな場面でこの詩に出会っても、コレは宮沢賢治のアレねと、それこそ「わかったもの」として処理されて、改めて頭の中にインプットされていなかったのである。
さて、それからしばらくして、沢木さんはテレビ番組から流れるこの曲を耳にすることになる。
雨にも風にも負けないでね
暑さや寒さに勝ち続けて
一日、すこしのパンとミルクだけで
カヤブキ屋根に届く
電波を受けながら暮らせるかい?
原作をなぞりながらも見事に陽水流にアレンジされた「雨ニモマケズ」である。養老孟司さんは「カミとヒトの解剖学」の中で、三島由紀夫は「目」の作家、宮沢賢治は「耳」の作家であると述べているが、まさしく陽水さんがすべて書き写すのではなく、あえて「耳」だけで聞き、自らの言葉で語り直すことによって生まれた歌詞である。そして、スマホでいつでもググれる今だったら生まれなかった歌詞だとも言えよう。
さらにサビでは、このあまりにも有名な宮澤賢治を代表する詩に対して大胆にも「わかんないよ」とレスポンスしている。
君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
高度成長期を経てバブルへ向かおうとする80年代前半、豊かさを享受していた時代に、決して賢治を否定するのではなく、賢治が「雨ニモマケズ」で示そうとした自己犠牲の理想と、もはやそれにリアリティが感じられない現実のギャップ、その「わからなさ」に向き合っているのである。
Can't Grasp It
ところで先日、日本文学研究者のロバート・キャンベルさんが井上陽水さんの歌詞を英訳し、その過程をまとめた『井上陽水英訳詞集』が発売された。「対話と共話」でも触れたような、言語の違いから生まれる様々な解釈の可能性を丁寧に検討しながら、時に陽水さんとの対話(共話?)を経て生まれた英訳とそのプロセスがとても興味深い1冊だ。
そして数々の名曲の中から選ばれた50曲の中に、この「ワカンナイ」も含まれている。
君の言葉は誰にもワカンナイ
Nobody grasps what you're saying.
君の静かな願いもワカンナイ
Can't grasp your silent wish either.
望むかたちが決まればつまんない
What a bore when your hopes take shape.
君の時代が今ではワカンナイ
Now I can't grasp your past.
キャンベルさんは「ワカンナイ」を「Can't Grasp It」と訳している。なるほど、そうか。「わかる」を表す英語は「understand」だけではないし、この曲の醸し出す「つかもうとするけれどつかめないんだよ」という感じがより表現されているようにも感じる。(ちなみに、この英訳詞集の序文は「井上陽水はうなぎだ」という一文から始まる。井上陽水さん自身もまた「Grasp」できない、つかみどころのない人のようである。)
「誤読」を誘う「余白」
Takramの渡邉康太郎が提唱する「コンテクストデザイン」でも、作り手の意図としての「強い文脈」だけでなく、読み手それぞれの解釈や積極的な誤読を許す「弱い文脈」の重要性が語られる。「余白」が「誤読」を誘い、「誤読」が新たな「創作」を誘うことで、読み手を次の作り手にしていく。賢治の詩自体がもつ「余白」、夜中に本屋まで自転車を飛ばした沢木さんの電話越しの朗読がつくった「余白」、陽水さんの歌詞の世界がもつ「余白」、英訳における言語の違いという「余白」。様々な「余白」が弱い文脈で繋がることで、この歌や英訳詞が生まれたのである。
素晴らしい作品は読み手の解釈や創作を喚起(evoke)する。ちょうどそんな話をTakramの渡邉と太田、ゲストのドミニク・チェンさんと語り合ったTakramcastが公開されたので、是非そちらも聞いてみてほしい。