AIを使って難しい本を読む方法〜あるいは今さら聞けないマルクス主義(の魅力と危うさ)
最近、数十年前に書かれた本に興味がある。先日勧められて買ってみたマイケル・ポランニーの『個人的知識』もその一つだ。
ポランニーといえば「暗黙知」。形式化されない知があるという指摘で、いまや一般的にも通用する言葉になっているのは考えてみると凄いことである。「暗黙知」についてだけでいくらでも話が広がるが、ひとまず松岡正剛さんの千夜千冊を紹介しておく。暗黙知とは、言語化されない職人技みたいなもの「ではない」らしい。
ところで、もはやネット上でアクセスできるデジタル化された情報は、ほぼAIによって学習され尽くされていると言っても過言ではない。ChatGPTにポランニーについて聞けば、そうしたネット上の言説を総合して「ポランニーは暗黙知で知られ、暗黙知とは…」とわかりやすく教えてくれるだろう。
でもそれは言ってみれば「要約の要約」みたいなもので、実は改めて原著を開いてみると、その「要約の要約」からは抜け落ちてしまういろんなことが書かれている。
今さら聞けないマルクス主義
前置きが長くなったが、今日の本題はそんな昔の分厚い本をめくっていてたまたま目に留まった、「なぜマルクス主義は人々を惹きつけるのか」「それがなぜ危ういか」という話である。
斉藤幸平さんの『人新世の資本論』などがきっかけとなって、いままたマルクス主義が注目されているものの、なんとなく歴史上一度もてはやされ、国家としても実験され、そして失敗した、なんなら危険な思想というイメージがある。
ただ実際にその中身を見てみると、確かに今でも(今こそ)大事な示唆を含む部分もあり、その歴史的な経緯やマルクスという人や思想については、例えばコテンラジオでも詳しく紹介されていて面白いのだが、この『個人的知識』という本では、そもそもなぜ人々がマルクス主義にハマるのかというところが構造的に説明されていて面白かった。
いや、面白かったとは言ったが、はっきり言ってこの手の昔の文章は難しすぎる。なんとなくページをめくって辛うじて目に留まったのは、
「なぜかくも矛盾に満ちた教義がそうした至上の説得力を有するのか。」
という一文だけで、気になってその先を読もうとしたが、何を言ってるのか全然頭に入って来ない。一応(読まなくてもいいが)前後を引用しておく。
難しい、、これをするすると読める人、どれくらいいるのだろう、、でもそんな時に助けになるのがAIの力である。ただAIにぼんやり聞いても「要約の要約」的な答えになるが、上のように具体的な文章をコピペして、例えばこう聞いてみる。
なぜ矛盾に満ちた教義が至上の説得力をもつのですか?上記の内容をふまえて、具体例を交えてわかりやすく説明してください。
矛盾に満ちた教義がなぜ「至上の説得力」を持つかを、具体例を交えてわかりやすく説明します。
1. 道徳的自己懐疑と客観性への情熱の同時満足
矛盾した教義が強い説得力を持つ理由の一つは、現代の人々が抱える相反する感情を同時に満足させるからです。たとえば、多くの人は「正義を追求したい」という道徳的な情熱と、現実を冷静に見つめる「科学的な客観性」を両方大事にします。しかし、両者はしばしば衝突します。たとえば、貧困の問題に対して、道徳的には「全員が平等に富を分け合うべきだ」と考えるかもしれませんが、客観的には「市場の法則や競争が経済を動かしている」という現実も理解しなければなりません。
マルクス主義は、この二つの矛盾する感情を同時に満足させます。つまり、「資本主義の搾取に立ち向かい、労働者階級のために戦う」という道徳的な高尚さと、「歴史や経済は科学的に分析できる」という客観的な理論を融合しているのです。これにより、信者はどちらか一方に偏ることなく、道徳的に正しく、かつ科学的に客観的であるという感覚を持てるのです。
2. 矛盾の魔法的解消
次に、教義が一見矛盾しているようでも、うまくその矛盾を統合することで、信者にとっては一層強力に感じられます。たとえば、マルクス主義では「歴史は物質的な条件によって決まる」としながらも、「人々は自らの意志で革命を起こし、平等な社会を実現できる」という二つの矛盾したメッセージが含まれています。普通なら、「物質的条件が全てなら、どうして個人の意志が重要なのか?」という疑問が浮かびますが、マルクス主義はこれを「弁証法」として説明し、両者を統合します。
このように、矛盾する要素を「理論的に統合している」という説明が加わることで、信者は教義が複雑であればあるほど「深い意味がある」と感じるようになり、より信じやすくなります。
3. 矛盾が信者の信念を強化する構造
実は、教義が矛盾しているほど、信者はより強くそれを信じるようになることがあります。たとえば、カルト的な団体では、指導者が「私たちは神に選ばれており、世界を救う」という道徳的な主張をしながらも、現実の行動は支配的であったり、独裁的であったりします。この矛盾に直面した信者は、普通なら「おかしい」と気づくところですが、むしろ教義が「複雑で深い」と感じるために、その矛盾を受け入れ、さらに教義に献身的になります。矛盾を受け入れること自体が「信念の試練」であると感じるようになるのです。
まとめ
矛盾に満ちた教義が至上の説得力を持つ理由は、次のような要素によって説明できます:
相反する感情を同時に満足させる:道徳的に正しい行動と、冷静な科学的分析という両方の要求を満たす。
矛盾をうまく解消する理論の存在:複雑な理論(弁証法など)で矛盾を統合し、信者に納得感を与える。
矛盾が信者の信念を強化する:教義の矛盾に直面した信者は、それを克服することでさらに信念を強める。
これにより、教義の矛盾がかえって信者の献身を深め、教義全体をより説得力のあるものにしていくのです。
なるほどー。人は誰しも感情論と正論の矛盾を抱えていて、その両方を満たした上で「矛盾してるからこそいいんだ」と言われると納得してしまうと。面白い。ちなみに矛盾を解消してくれる弁証法ってなんだったっけ?わからないところは聞けばいい。
だいぶわかってきました。ただ、弁証法がまだよくわかりません。弁証法とは?
弁証法(べんしょうほう、dialectic)は、対立や矛盾する考え方や要素を統合し、発展させていく思考のプロセスです。古代ギリシャの哲学者ソクラテスやプラトンによって初めて使われ、特にゲオルク・ヘーゲルやカール・マルクスが発展させた概念です。
弁証法の基本的な考え方を簡単に説明すると、物事は対立を通じて発展していくというものです。具体的には、次の3つのステップで説明されることが多いです。
1. テーゼ(命題)
何らかの考えや立場がまず存在します。これをテーゼ(thesis)と呼びます。たとえば、資本主義の経済システムがあるとしましょう。
2. アンチテーゼ(反対命題)
次に、そのテーゼに対する反対意見や矛盾が現れます。これをアンチテーゼ(antithesis)と呼びます。たとえば、資本主義が富を一部の人に集中させ、不平等を広げるという批判です。
3. ジンテーゼ(統合)
最後に、テーゼとアンチテーゼの対立や矛盾を乗り越えて、新しい段階へと発展する統合された考え方が生まれます。これをジンテーゼ(synthesis)と呼びます。たとえば、資本主義と社会主義の要素を組み合わせた新しい経済システムが提案される、といった具合です。
弁証法の実際の意味
弁証法の核心は、「矛盾や対立があっても、それは解決や発展のための過程であり、新しいものを生み出すための力になる」という考え方です。物事は静的なものではなく、常に変化し、発展し続けるとされています。
ヘーゲルの弁証法
ヘーゲルは、この対立や矛盾を社会や歴史の進展として説明しました。彼の考えでは、歴史そのものが弁証法的なプロセスで進化していくとされています。つまり、歴史の中で生じる対立や矛盾が、最終的に新しい段階を生み出し、それがさらに次の矛盾を引き起こしていくというものです。
マルクス主義と弁証法
カール・マルクスは、ヘーゲルの弁証法を「歴史の法則」として取り入れ、特に社会や経済の発展を説明するために用いました。マルクスの弁証法は「弁証法的唯物論」と呼ばれ、彼は経済的な条件(物質的な要因)によって歴史が動いていると考えました。資本主義(テーゼ)とそれに対する労働者の反発(アンチテーゼ)の対立が、最終的には社会主義(ジンテーゼ)へと発展していく、という歴史の進行を想定していたのです。
弁証法の例
例えば、冷戦時代の資本主義と社会主義の対立も、弁証法的に説明できます。
テーゼ(資本主義):自由市場、個人の利益追求、少ない政府介入
アンチテーゼ(社会主義):国家の計画経済、平等主義、政府による資源分配
ジンテーゼ(福祉国家や第三の道):資本主義と社会主義の要素を組み合わせ、自由市場を維持しつつ、政府が社会保障や福祉政策で不平等を是正する
まとめ
弁証法は、矛盾するものや対立するものを統合し、新しい段階へと発展させる思考のプロセスです。このプロセスを使うことで、物事の進展や変化を理解し、複雑な問題をより深く考察することができます。マルクス主義のような理論では、弁証法を用いることで、社会や歴史の進化を説明し、現状の対立を乗り越えるための道筋を示そうとしています。
そうかそうか、テーゼとかアンチテーゼとかいうやつか。アウフヘーベンか。ここまでの自分の理解を示して、つまりこういうこと?と確認してみる。
なるほど。弁証法こそが歴史の法則である、ということの根拠が実はない、にもかかわらず人々がそれに納得してしまう、というところが危うさですか?
そうです、まさにそこがマルクス主義や弁証法的思考の危うさといえる点です。
根拠の不明確さ
弁証法を「歴史の法則」として用いる場合、対立や矛盾が必ず発展を生み出すという理論的な前提があります。しかし、この「歴史が必ず弁証法的に進む」という主張には、具体的な証拠や根拠が必ずしも明確ではありません。たとえば、資本主義が社会主義に必然的に進化するという考え方が、実際にどのような条件下でそうなるのか、またその過程が普遍的かどうかには疑問が残ります。
歴史や社会の進展が必ずしも一方向的で、対立や矛盾が常に新しい社会的進化を生むとは限りません。むしろ、対立が激化して崩壊したり、停滞したりする場合もあります。このように、弁証法的な発展という見方は一種の仮定にすぎず、必然ではないという点で「危うさ」が存在します。
納得してしまう理由
にもかかわらず、弁証法的な歴史観が多くの人々に納得される理由は、その理論が持つシンプルさと包括性にあります。弁証法は、複雑な社会現象や歴史の流れを、対立→統合→発展というわかりやすいパターンで説明します。このシンプルさが、特に混沌とした社会状況や矛盾が溢れている時代において、人々に安心感を与えるのです。
また、弁証法は希望や正当化の理論としても機能します。たとえば、資本主義の不平等や矛盾を批判する際に、「この対立や矛盾は、必然的に社会主義という新しい秩序へと進む」という希望を抱かせます。つまり、矛盾があること自体が次の段階への前兆であると説明され、未来への進展を正当化するものとして受け入れられるのです。
危うさの要因
このような考え方の危うさは、以下の要素によって強まります。
予測が正当化される:弁証法は「歴史の法則」として扱われるため、何かが上手くいかなかったとしても、「今はまだ途中だ」「対立が激化しているだけで、最終的には解決される」といった楽観的な見方が容易に生まれます。これにより、現実の問題解決が遅れたり、状況の悪化を見逃してしまうことがあります。
実証性の欠如:弁証法的な歴史観は、実証的なデータや事実に基づくものではなく、理論的なフレームワークに依存しています。そのため、現実が理論に合わない場合でも、理論自体が「誤り」だとは簡単に認められず、むしろ現実の方が「まだ未成熟」だとされることが多いです。
信念の強化:矛盾や対立が生じると、信者はそれを「次の発展の前兆」として捉え、教義への信念を強化します。この結果、逆に矛盾が大きくなるほど信念も強まり、修正や再考の機会を失ってしまいます。
まとめ
弁証法が「歴史の法則」として納得される背景には、その理論のシンプルさや包括性があり、特に社会の矛盾や混乱をうまく説明できるように見えるため、多くの人が納得してしまいます。しかし、実際にはそれが普遍的であるという根拠は薄く、現実とのギャップを無視して理論に固執する危うさが存在します。この点で、弁証法的な思考はしばしば非常に説得力がある一方で、柔軟さを失いがちな部分があり、現実の問題を見逃すリスクがあります。
いやあ、為になった。マルクス主義に限らず、ある種の主義主張がなぜ人々を惹きつけるのか、そしてそれがなぜ危ういのか、詳しい人にとっては何を今さらな話かもしれないが、個人的にはかなり整理できた。
脱資本主義的な議論の中で、改めてマルクスが注目されている今、過去と同じ失敗を繰り返さないためにも、最低限こうした構造的な魅力や危うさがあることを踏まえた上で議論する必要があるだろうと思った。
【補足】
紙の本の内容をテキスト化するのに、最近のiPhoneカメラのOCR機能は優秀で、当たり前のように写真の中の文字を選択してコピペできる。(意外とまだ知られてない。)ちなみにChatGPTに写真を渡しても中身を読んでくれるのだが、どうも斜め読みしてるというか、ちゃんと読んでいるのか怪しい時がある。(その場合は画像から読み取った内容を出力させてみた方がいいかもしれない。)
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