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はじめて考えるときのように

もう20年近くも前のことになってしまうが、大学時代に受けた講義の中で、今でも記憶に残っている「科学哲学」という講義がある。哲学とは「そもそも」にとことん向き合う学問であり、「科学哲学」は「科学のそもそも」にとことん向き合う哲学ということになる。例えば、わたしたちはよく「科学的に正しい」という言い方をするが、そもそも「科学」は本当に「正しい」のだろうか?そもそも「正しい」とはどういうことだろうか?そんなことを科学史を紐解きながら考えていく授業だった。

歴史を振り返ってみれば、ガリレオ以前は「宇宙の中心は地球で、すべての天体は地球の周りを回っている」という天動説こそが「科学的に正しい」とされていたわけで、今わたしたちが「科学的に正しい」と思っていることだって、新たな発見によっていつ覆されるかわからないのである。

ブラックスワンと反証主義

では、何をもって「科学的」とすればいいのだろうか。そこで紹介されたのが、カール・ポパーの反証主義という考え方だった。反証主義とは次のような考え方である。

ある仮説の正しさを証明するのにすべてを検証し尽くすことはできないが、たった一つでも反例(仮説が当てはまらない例)が見つかれば反証(間違っていることの証明)は可能である。そして、今正しいとされている科学は、そのような反証可能性を残しつつも今のところ反証されていない、暫定的で相対的なものにすぎない。

「白鳥は白い」ことを証明するために世界中の白鳥を1羽残らず調べ尽くすことはできないが、たった1羽でも「黒い白鳥(ブラックスワン)」が見つかれば反証は可能なのだ。そして、科学にとって大事なのはこの「反証可能性」が残されているかどうかだとポパーは言うのである。つまり「科学的に正しい」とは、ブラックスワンが(今のところ)まだ見つかっていない状態であり、その状態がいくら続いていようと、常に間違っている可能性を排除しないことこそが科学的態度なのだ。何かを「絶対的に正しい」もしくは「絶対的に間違っている」としてしまうことは、(反証可能性を認めないという意味で)「神は存在する」と言い切るのと同じように、もはや「科学」とは言えないのである。

「自分が正しい!」が正しくない可能性、「ありえない!」がありえる可能性。今すぐ自分の考えを変える必要はない。ただ、もしこうだったら考えがかわるかもしれないという「間違っている可能性」を考えてみること。それまで教科書に載っていることの正しさについて疑問を持たずに受験勉強をしてきた自分にとって、それはまさに自分の環世界を揺さぶられる貴重な経験であり、今でも自分の根幹にある考え方の一つになっている。

考えるって、どうすること?

この「科学哲学」の講義を担当されていたのが、哲学者の野矢茂樹先生である。座っているだけで単位が取れる(笑)「座禅ゼミ」を開講されていたりと、とてもユニークな先生で、著作もどれもとても面白いのだが、どれか一つ挙げるとするなら、まずは『はじめて考えるときのように』という本をオススメしたい。今回『情報環世界』でわたしが担当した「“わかる"と“つくる"」というテーマにも、多くのインスピレーションを与えてもらった一冊である。

「考えるって、どうすること?」子どもにそう質問されたらどう答える?–––本書はそんな問いから始まり、考えること、わかることの「そもそも」を、絵本のように詩的な語り口で易しく深く紐解いていく。

考えるということは、現実から身を引き離すことを必要とする。現実からいったん離陸して、可能性へと舞い上がり、そして再び現実へと着地する。こんな運動がそこにはなくちゃいけない。

「考える」とは、「現実から離陸して、可能性へと舞い上がり、再び現実へと着地する」こと。何かを考えているとき、(足元が揺らぐ心細さと新しい出会いへの期待を抱えながら)わたしたちは現実から「可能性」の世界へ旅をしているのだ。そして再び現実に舞い降りた時、実はもう元いた地平とは別の地平にわたしたちは降り立っている。「考える」ことは、それだけですでにとてもクリエイティブな行為なのである。

一方で、「考えないでいられたら」という一節もまたいい。

 ぼくは考えることが大好きだけど、でも、なんだか嫌だなあ、と思うこともある。もっとすなおにものごとを受け入れることの方が、もっとだいじだと思うこともある。だって、お風呂ぐらい何も考えないで入りたいじゃないか。ご飯もただ「おいしい」って食べる方がいいし、風が吹いてきて「あ、気持ちいい」って感じるときも、何も考えていないじゃないか。
(中略)
 でもね。クリストファー・ロビンがプーに言ったことばをまねして言うならば、「ぼく、もう何も考えないでなんか、いられなくなっちゃったんだ」
 しょうがないね。せめて考えることにじょうずになろう。

決して考えることだけがエライわけではなく、むしろ人間は考えてしまう生き物なのだ。感じること、考えること、どちらも大事にしていきたいものだ。

心という難問

ところで、数年前に幸運にも野矢先生と直接お話しする機会に恵まれた。ちょうどその頃に上梓された著作『心という難問』の内容が話題の中心だった。

この本で取り上げられている問いに、「哲学的ゾンビ問題」というものがある。例えば「AIには心がない」といった言い方があるが、「哲学的ゾンビ問題」とは、そもそも本当に自分以外の人に心がある(そう見えるだけのゾンビではない)ってどうして言い切れるの?という問いである。いやいや、さすがに目の前の人がゾンビってことはないでしょう、と思うのだが、これを哲学的に考え始めると実はとても難しい問題であるらしい。

本書によれば、そこで鍵を握るのは「物語の共有」だという。それも「物語の大部分を共有していること」と「それでもその物語に共有しきれない部分が残ること」が大事だと。例えば、目の前の人が古びた腕時計をやたらと大事そうにつけているとしよう。まず、それが時を知るための道具であるというのはほとんどの人が共有している「物語」だろう。でももっと何か理由がありそうだ。よほどレアなビンテージものか、はたまたおじいちゃんの形見か、、話を聞いてみると、さらに共有できる「物語」が増える。でもやっぱり物語(例えばおじいちゃんとの想い出)のすべてを共有することはできない。そうやって共有しきれずに残る「わからなさ」に思いを馳せるとき、その関係性の中に「心」は生まれるのだ。

「大部分の共有している物語(わかる)」と「それでも共有しきれない物語(わからない)」の間(あわい)に「心」が生まれるのであれば、実はそこに人間とAIとで本質的な違いはないのかもしれないとも思えてくる。「物語の共有」を意識することは、人間同士でも共有部分が少な過ぎてわかりあえない人とわかりあうためのヒントや、逆に物語を共有しすぎたマンネリ解消のヒントになるかもしれない一方で、人間がAIやロボットと「心」を通わせるための大きなヒントになるかもしれないのだ。

つい先日、サンフランシスコでロボットアームがコーヒーを淹れてくれることで話題のCafeXの動画を目にしたのだが、そこに映っていたロボットアームの動きが、ちょうど1年前に私が現地で見た動きと様変わりしていて驚いた。1年前、ぎこちなくコーヒーを淹れるだけで精一杯だった頃の彼と物語を共有していたわたしは、コーヒーを淹れる合間に陽気にダンスを踊る余裕を見せる今の姿に、この1年間の共有しきれない成長の物語を勝手に想像して、確かにほんの少し「心」と呼べそうな何かを感じたような気もするのである。

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