正しさはどこにあるか
選挙とは、意見や考えが異なる人たちがそれぞれ自分の「正しさ」を主張する場である。当然そこにはお互いに相容れない「正しさ」が並んで存在することになる。ある党はAが正しいといい、またある党はBが正しいと言い、お互いに決して譲らない。そんな状況で急に選挙が始まってそれぞれの公約や政策だけを聞いていても、どちらが正しいのか、どちらを信じればいいのかわからず、思考停止してしまう人も多いのではないだろうか。
「否定の道」を探す
「正しさ」とはなんだろうか。「はじめて考えるときのように」でも紹介したように、「正しさ」にとって重要なのは「反証可能性(間違っている可能性)」が残されていることである。また、このポパーの反証主義を再評価したタレブも、著書『反脆弱性』の中で「否定の道」の重要性を次のように指摘している。
否定的な知識(何が間違っているか、何がうまくいかないか)のほうが、肯定的な知識(何が正しいか、何がうまくいくか)よりも、間違いに対して頑健だ。つまり、知識は足し算よりも引き算で増えていくのだ。今、正しいと思われているものは、あとになって間違いとわかる場合もあるが、間違いだとわかりきっているものが、あとになってやっぱり正しかったとわかる、なんてことはありえない。少なくともそう簡単には。
(ナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性―不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』)
つまり、自分の考えの「正しさ」を考えるためには「もしこうだったら間違っている」という可能性、「否定の道」を考えてみることが重要なのだ。しかし、選挙に限らず、政治についての議論はどうしてもそれぞれのフィルターバブルの中から「自分の方が絶対に正しい」と主張し合う場になってしまいがちで、それぞれの立場からそれぞれの「否定の道」が提示されることはなかなかない。
憲法は何を決めているか
例えば、憲法改正の是非を問うには、まず前提として憲法とは何なのかを示しておく必要がある。民主主義の原則によれば、「憲法は政府の権限の範囲を規定するもの」であり、「すべての法律は、憲法に沿って書かれなければならない。」とされる。逆にいえば、憲法に規定されていないのであれば法律で決めればよいとも言える。(違憲かどうかは裁判所が判断する。)憲法改正の議論には、まず「それって本当に憲法を変えないとできないことなのか?法律じゃだめなのか?」という視点が必要だと思うのだ。わたしたちの基本的な権利を守るために、本当に憲法を変えないと実現できないことって何だろうか?
経済の絶妙なバランス
消費税を含む経済・財政政策も今回の選挙の大きな争点の一つである。
まず、「消費税を増税すべき」という主張の「正しさ」の前提は、ざっくり言えば国の借金がこれ以上膨らむと、どこかで日本という国が信用を失い、日本円の価値が下がり(インフレ)、破綻してしまうという考えだ。しかし一方で、当然税金が増えれば生活者が使えるお金は減り、結果として景気は停滞し、国の税収も減る可能性がある。このあたりが増税論に対する懸念だろう。
一方で「消費税増税は必要ない」むしろ「減税や廃止しても大丈夫だ」という主張もある。これらには2つの考え方があり、一つは「大企業や富裕層からもっと税金を取れば大丈夫」という考え方、もう一つは「国はどんどん借金しても大丈夫」という考え方だ。
「大企業や富裕層からもっと税金を取れば大丈夫」という主張については、生活者視点では正しく感じられるが、経済はグローバルで動いているという現実もあり、もっと税制の有利な国に大企業や富裕層が移ってしまうという懸念がある。トマ・ピケティも『21世紀の資本』でこのような大企業や富裕層への累進課税を主張しているが、「世界で一律に」適用することが前提だとしている。
「国はどんどん借金しても大丈夫」という主張は、アメリカではサンダースやオカシオコルテス(AOC)、イギリスではコービンの労働党など、MMT(現代貨幣理論)や反緊縮論などと言われる世界的な左派の潮流となっているが、こちらはざっくり言えば、通貨発行権のある国はお金がなくなったらお金を刷ればいいという考えだ。この主張の「正しさ」は、それでもその国の信用が低下しインフレを止められなくなるような事態は起きないという前提の上にあるが、本当にそうかは何とも言えないところだ。
情報技術の進化でお金の流れはますますダイナミックになり、アルゴリズムやAIで最適化されすぎた取引はちょっとしたきっかけで一気に破綻するリスクをはらむ。そこに行動経済学が明らかにしたような不合理に行動する人間のふるまいが加わり、経済はますます不確実性の高い絶妙なバランスの上に成り立っている。さらに言えば、刻一刻と変化する状況の中では、「何をやるか」だけでなく「いつやるか」も臨機応変に考えるべきだろう。
「正しさ」の前提と限界を知る
今回、憲法や消費税を例に挙げたが、外交や安全保障なども同様だろう。不確実性が増す世界情勢の中で全くの丸腰ではいられないが、本当にF35戦闘機が100機必要かは議論すべきだし、日々自衛隊が警戒を怠らないでいてくれているから平和を享受できていることには感謝しなければならないが、もう二度と侵略戦争を起こしてはならないのは言うまでもない。
あらゆる「正しさ」には前提と限界があるし、上に述べたことも議論の入り口に過ぎないが、せめてそれぞれの「正しさ」の前提と限界を頭に入れた上で、どの未来に賭けるのかそれぞれ判断すべきではないだろうか。