冷静に右往左往する
「正しく怖がる」って誤解生む言葉だなと思う。
元ネタはおそらく寺田寅彦の随筆「小爆発二件」で、震災直後にすでに出版されていた数少ない放射能リスクに関する本『人は放射能になぜ弱いか』の冒頭で引用されていてよく知られるようになったのだと思われる。
正当にこわがることはなかなかむつかしい
この一節が出てくるのは、浅間山の噴火を偶然ふもとで目撃した寺田寅彦が、駅で山から降りてきた学生と駅員の会話を聞いているシーンだ。
十時過ぎの汽車で帰京しようとして沓掛駅で待ち合わせていたら、今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。爆発当時その学生はもう小浅間のふもとまでおりていたからなんのことはなかったそうである。その時別に四人連れの登山者が登山道を上りかけていたが、爆発しても平気でのぼって行ったそうである。「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。
噴火を知りながら平気で山を登っていった登山者の話を聞き、危険な状況でも自分は大丈夫だと考えてしまう、いわゆる「正常性バイアス」について述べているのだ。
つまり、「正当にこわがることはなかなかむつかしい」の「むつかしい」の部分がとても大事だと思うのだが、どうも昨今の使われ方としては「正しく怖がるべし」=「情報に振り回されるな。正しい情報に基づいて正しく判断すべし。」といった意味合いで使われることが多いようが気がする。しかし、それはあくまで「こわがり過ぎ」に対する話であり、「こわがらな過ぎ」も同じように問題なのである。むしろ、寺田寅彦が言おうとしたのは「正しくこわがる」ことの難しさ、ほんとにそれは難しいことなんだよと、そのことに自覚的であれと、「正しくこわがれる」と思うなよ、と言っているんだと思う。
今朝は地元でも感染者が出たとのニュースが流れ、両親の住む実家近くに住む栄養士をしている姉とLINEで会話した。高齢者は重症化リスク高いというデータが出ているので両親は特に気をつけることや、今は社会全体としてどれだけ感染を抑えられるかの瀬戸際、最大限注意しすぎるに越したことはない段階に来ていることなど、現時点での一通りの情報共有をしたあと、こんな会話のやりとりをした。
姉「正しく怖がることだよね。」
私「状況も情報も常に変わるし難しいよね。」
「正しく怖がりましょうっていう言い方は、それはそれで危険だなと思ってて。」
姉「まさに今タイムリーだよ。事実と感情がごちゃ混ぜになりがちだよね。」
私「『正しく』は事実、『怖がる』は感情だからね。」
姉「情報がたくさんあるから右往左往だよ。」
私「冷静に右往左往しましょうという話。」
「どっちやねんっていう。」
「でもそれしかないよねっていう。」
姉「なるほど笑」
楽観も、悲観も、どちらにとどまっても思考停止だ。
冷静に右往左往しましょう。
だからどっちやねんっていう。
でもそれしかないよねっていう。
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