マイノリティと選挙
選挙とは多数決である。民主主義では多数決の原理に従って様々な決断が下される。一方で、少数派の意見も尊重すべきであるとも言われる。多数決の原理と少数意見の尊重、一見矛盾するように思えるこの民主主義の2つの原則は両立しうるのだろうか。「マイノリティ(少数派)」とはどんな存在でそれを「尊重する」とはどうすることなのだろう。
常に説明を求められる「マイノリティ」
そもそも「マイノリティ(少数派)」とは何なのだろうか。先日の『情報環世界』トークイベントでご一緒した多摩美の久保田先生がこんなことを言われていた。
「マイノリティは常に説明を求められるんですよ。美術大学という存在自体がマイノリティで、みんななんで美大に行くの?なんでアートをやってるの?と常に問われるんです。」
アートに限らず、例えば「なんで学校に行くの?」とは聞かれないが、不登校になると「なんで学校に行かないの?」と聞かれる。「女なのに◯◯」「男なのに◯◯」「中卒なのに◯◯」「東大出たのに◯◯」「子どもなのに◯◯」「40過ぎたのに◯◯」–––。ある集団の中でマジョリティ(多数派)の側にいたらわざわざ聞かれないであろうことをいちいち問われるたび、人はマイノリティであることを自覚させられる。実際に親や友人や初対面の人に「どうしたの?」「どうして◯◯なの?」と聞かれるだけでなく、メディアなどを通して知らず知らずのうちに自問自答させられることも含めて、自分の存在や思想や行動を肯定するために何かしらの理由や説明を求められるのがマイノリティであり、マイノリティの権利とは、自己を肯定するために理由や説明を求められない権利ということが出来るかもしれない。
自分がマイノリティであると感じるかどうかはどんな集団に属しているかによるし、おそらく誰しもマジョリティとしての自分とマイノリティとしての自分を「分人」として持っているはずなのだ。
Majority Rule, Minority Rights
さて、では多数決と少数意見の尊重、この2つの原則はどう両立できるのだろうか。米国国務省が公開している民主主義の原則には「Majority Rule, Minority Rights(多数決の原理と少数派の権利)」として以下のようにまとめられている。
多数決の原理は、政府を組織し、公共の課題に関する決断を下すための手段であり、抑圧への道ではない。ひとりよがりで作った集団が他を抑圧する権利がないのと同様に、民主主義国においてさえも、多数派が、少数派や個人の基本的な権利と自由を取り上げることがあってはならない。
民族的背景、宗教上の信念、地理的要因、所得水準といった要因で少数派である人でも、単に選挙や政治論争に敗れて少数派である人でも、基本的人権は保障され享受できる。いかなる政府も、また公選・非公選を問わずいかなる多数派も、それを取り上げてはならない。
さらに、少数派の権利を守り、多様性を認めることは個人の権利を守るだけでなく、国を強くし豊かにするためにも重要であるともされており、最後にはこのように締めくくられている。
少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題に、ひとつの決まった答などあり得ない。自由な社会は、寛容、討論、譲歩という民主的過程を通じてのみ、多数決の原理と少数派の権利という一対の柱に基づく合意に達することができる。そういう確信があるのみである。
ここで注目したいのは、多数決の「ルール(Rule)」と少数派の「権利(Rights)」の違いだ。少数意見の尊重とは少数派の意見に従えということではないのだ。多数決の「ルール」が少数派の「権利」を奪ってはいけないということであり、「ルール」と「権利」は両立しうるのである。
以前「世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないように」というガンジーの言葉を引用したが、誰にでも「世界に変えられてしまわない権利」がある。多様な価値観を持つ人たちが出来るだけお互いにお互いの権利を犯さないで済む世界を実現するために、寛容、討論、譲歩を通じて、多数決のルールと少数派の権利に基づく合意を目指すのが民主主義の原則なのである。
また、さらに付け加えるなら、はじめは「世界によって自分が変えられないように」何かを始めた人も、影響力を持つと「世界を変えよう」という発想になりがちであることにも気をつけたい。どんなによかれと思っていることだとしても、「世界を変えよう」という発想には、他者に対して何かしらの変化を強制しようとする危うさがある。そのことも意識しておきたい。
選挙という不完全なシステムと一票の意味
ところで、今回の選挙から比例区に「特定枠」という新たな制度が導入されているのはご存知だろうか。
去年、いわゆる「一票の格差」をなくすため、定員をこれ以上減らせなくなった鳥取と島根、徳島と高知をそれぞれ(2県で1人を選ぶ)合区にしたのだが、いずれも自民党が強いのでどちらかの県の自民党議員が議席を失うことになってしまう。そこで作られたのが、比例区の定員を増やし、本来は比例区の欄に書かれた名前が多い順に当選すべきところを無視して優先的に当選させられる「特定枠」だ。(実際、自民党は島根と徳島の議員を特定枠に指定しているが、れいわ新撰組はまたそれを逆手にとった戦略を取ったりもしている。)
この新しい制度が正しく民意を反映させるためのものかはさておき、ひとつ言えるのは、多数決の原理に基づいた選挙という仕組みが決して完璧なものではないということだ。歴史上も、より民意を反映させることを目的に、小選挙区、中選挙区、比例代表制など、さまざまな選挙制度の試行錯誤や提案がなされてきたし、アイデアレベルではおそらく数えきれないほど提案がなされているだろう。
例えば、あらゆる議題を国民投票で決める、というアイデアはどうか。電子投票で投票コストは圧倒的に下げられるかもしれないが、あらゆる議題についてきちんと調べ妥当な判断をすることは出来るだろうか。
では、選挙区や政党や立候補という制度を辞めて、みんなが自分がなってほしい人を投票するのはどうか。面白いかもしれないが、あらゆる人の考えを網羅的に調べるのは現実的ではないし、誰か一人だけを選ぶということ自体が難しそうだ。
スマートニュース代表の鈴木健さんは、著書『なめらかな社会とその敵』の中で、分人民主主義(Divicracy)という提案している。自分の1票を好きなように分割して投票できる仕組みで、例えば7:3に分けて別々の案に投票してもかまわないし、自分の票の一部を自分が信頼する人に委任してもよい。鈴木さんは具体的にアルゴリズムとシミュレーションでその有効性を検討しているのだが、確かに今の情報技術を使えば技術的には十分実現可能と思える提案だ。(ちなみにこの『なめ敵』には、これ以外にも新しい貨幣システムなど、情報技術を使って複雑な社会課題を単純化せず複雑なままもっとなめらかに解決する興味深い提案が盛り込まれており、改めて取り上げたい一冊である。)
さらに言えば、そもそも「一票」に何を代表させるべきかという問題もある。現状「一票の格差」は住んでいる場所と個人の関係をもとに平等を目指しているが、人口の多い大都市の発言権が増し、ますます都市への一極集中を助長する懸念もある。そうではなく、例えば各都道府県という行政単位ですべて同じ定員にするという考えもありかもしれない(例えば国連では人口に関わらず各国1票だ)し、今後多拠点生活者が増えていくことを想定すればいわゆる「関係人口」に基づいた平等を目指すという考え方も出来るかもしれない。
いずれにしても、現状の選挙というシステムが完璧ではないという前提には立つべきだ。政策比較サイトで自分の回答にマッチした候補者や政党に素直に投票することももちろん否定はしないし、投票しないよりはよっぽどいいが、例えば、ある党だけが行き過ぎないように今回はバランスを取ろうとか、当落線上にいる候補者の中から選ぼうとか、現状の選挙制度の中で、自分の一票をどう使えば結果に活きるのかを少し考えてみるのもよいのではないだろうか。
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