わからないものをつくる
What I Cannot Create, I Do Not Understand.
つくれないものは、わかったとはいえない。
『情報環世界』を通して「わかるとつくる」を巡る思索の旅を続けていく中で出会った、物理学者ファインマンの最期のメッセージ。果たしてファインマンはこのメッセージで何を言おうとしているのだろうか?いや、そもそもファインマンの言ったことは本当に正しいのだろうか?
What I do not understand, I can create.
わからないものでも、つくることはできる。
あえてこう言ってみることはできないだろうか?先日行われた『情報環世界』発売記念トークイベントは、ゲストの久保田晃弘さんによるこんな問いかけから始まった。
東京大学工学系研究科で船舶工学と流体力学を学び、人工物工学研究センターを経て、多摩美術大学メディア芸術コースで教鞭を取る久保田先生は、わたしが尊敬してやまない人の一人だ。常に最先端の科学と芸術の接点に立った教育や作品制作を実践されているだけでなく、『ニュー・ダーク・エイジ』のように、未来を考える上で重要な問いを投げかける書籍の監訳も多数手がけられている。アナーキーでハードコアでありながらインクルーシブで何よりいつも楽しそうなのが素敵で、わたし自身、多摩美で授業を持たせていただいたり、世界初の「芸術衛星」を打ち上げるARTSATプロジェクトでは超小型人工衛星ARTSAT1:INVADERのデザインを担当させていただいたりと、サイエンスとアート、エンジニアリングとデザインを行き来するその深い思索と実践を間近で見ながら、影響を受けてきた一人である。
出来るだけ遠くへ
そんな久保田先生を一言で表現するなら「出来るだけ遠くにボールを投げる人」だと常々思っている。バイオ、宇宙、ポストヒューマンなど、いつも出来るだけ誰もいないところに、出来るだけ誰もしたことのない問いを投げかける人なのだ。(ちなみに、ARTSAT2:DESPATCHでは文字通り深宇宙まで彫刻作品を放り投げてもいる。)
今回の冒頭の問いかけも、20世紀を代表する物理学者ファインマンの言葉をありがたく受け取るのではなく、自らその先を考えようとするものだ。そういえば以前別のトークイベントでも、「これまではAだったがこれからはBだ」というある本の主張に対して「自分はCを考えてきた」と仰っていたのを思い出し、その変わらぬ姿勢に改めて感服した。
当日は、そこからさらに量子力学の発展に寄与したファインマンに絡めて、量子論的実在論(量子論的「わかる」?)や量子コンピュータアート(量子論的「つくる」?)にまで話が及び、まさに遥か遠くに投げられたボールをみんなで取りに行くような、とても面白いトークイベントになった。
わからないからつくる
「つくれないものは、わかったとはいえない」というファインマンの言葉は、言い換えれば「わかるものはつくれる」という科学者宣言でもある、という久保田先生の指摘にまずはっとさせられた。それはたしかに力強い宣言だが、一方で原子力をはじめとして「わかったことをつくってきてしまった」ことは20世紀の科学の反省でもあるはずだと。わかったからといって何でもつくっていい時代ではもはやないのである。
そして、もう一人のゲスト、あいちトリエンナーレのキュレーターも務めるミュージアムエデュケーター会田大也さんもまた、アートの役割は「わからないものをつくる」「わからないからつくる」ことにこそあると言う。
わたしが東京大学を卒業したあとに飛び込んだIAMAS(現:情報科学芸術大学院大学。ちなみに同世代にはクワクボリョウタさんやライゾマティクスの石橋素さん、真鍋大度さんらも在籍していた。)で出会った友人である会田さんは、畳1枚分ほどの分厚いアクリル板に1万円札を100枚並べて封入した作品をつくり、当時それをインターネットオークションで売るという試みをしていた。(そのために100万円をアルバイトで貯めたというからやはり只者ではない。)
《もし100万円を素材としたアート作品があったなら,果たしてそれはどれくらいの価値があるのだろうか? *インターネットオークション》 [2001]
彼によれば、アート作品の価格がどのように決まるのかが「わからない」ことがこの作品を「つくる」モチベーションになっていたという。アートは、アーティストがわかっていることを他者へ伝えるためにつくっていると思われがちだが、必ずしもそうではないのだ。
「予測する脳」で取り上げたように、考えることは、脳があらかじめ予測したものと感覚器官が現実世界から受け取るものに差異があるときにはじめて引き起こされる。「わかる」とは、自分の内的世界と現実世界に齟齬がなく、考えないでいられることであり、「つくる」とは、そんな自分の内的世界と現実世界の間の小さな齟齬や違和感を見過ごさず、頭の外に出してみること。それは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするための行為なのである。
何もはじめから自分の中に正解があって何かをつくるわけではない。自分の内的世界と現実世界の間の小さな齟齬や違和感を感じながら、それがなんなのかわからないまま、むしろわからないから「つくる」のだ。
月を指せば指を認む
楞厳経(りゅうごんきょう)に「月を指せば指を認む」という言葉があるが、言ってみれば、アーティストがつくっているのは月を指し示す「指」である。アーティストは、作品を見る最初の鑑賞者であり、指をつくることではじめて、それが指す方向にある月や、さらにその向こう側にある深遠な宇宙が見えてくるのだ。そしてアートに限らず、今回のトークイベントでも久保田先生が発してくれた言葉がきっかけになったように、デザインにせよ、何か新しいアイデアを生み出すにせよ、頭の中で考えるだけでなく、わからないことでもまず頭の外に出して言葉やかたちにしてみることが大切だ。
つくれないものをわかる
さて、話はファインマンからさらに量子力学の世界へ展開する。量子力学はわたしたちの直感からかなりかけ離れた世界であり、そういった経験しえないものを「わかる」とはどういうことか、という問いだ。とても興味深い問いだが、このボールを取りにいくのは少し時間がかかりそうなのでまた次の機会にしたいと思う。