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次の世代と共に生きる

拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』発売から数週間、少しずつ読んでいただいた方からの反響を頂いています。ありがとうございます。本格的に本の執筆に入ってからお休みしていたnoteも、この本に関連した話題や書ききれなかったこと、本の中で取り上げた書籍、本を取り上げて頂いた書評記事などを紹介していければと思っています。

今回は、ミラノ在住のビジネスプランナー安西洋之さんがSankeiBizに連載されている「ローカリゼーションマップ」に、本のことを取り上げて頂いたので紹介します。

自転車はなぜ愛されるのか? 道具やテクノロジーについての「6つの問い」

 自転車は人々にとても愛されている道具だ。自動車はここまで愛されていないだろう。なぜ、自転車は道具としてこうまで愛され、その存在に文句を言われず、肯定されやすいのだろうか。否定されることは稀だ。

安西さんには記事の中で、このnoteの「ちょうどいい道具」でも取り上げた自転車の話を起点に、わたしが本の中でまとめた6つの問いを紹介いただいている。

そのテクノロジーは、人間から自然環境の中で
生きる力を失っていないか?
そのテクノロジーは、他にかわるものがない独占をもたらし、
人間を依存させていないか?
そのテクノロジーは、プログラム通りに人間を操作し、
人間を思考停止させていないか? 
そのテクノロジーは、操作する側と操作される側という
二極化と格差を生んでいないか?
そのテクノロジーは、すでにあるものを過剰な速さで
ただ陳腐化させていないか?
そのテクノロジーに、わたしたちはフラストレーションや違和感を
感じていないか?

これは、イリイチが『コンヴィヴィアリティのための道具』の中で提示した多元的なバランスのための「生物学的退化」「根元的独占」「過剰な計画」「二極化」「陳腐化」「フラストレーション」という6つの視点を、わたしなりにかみくだいて問いのかたちにしたものであり、この50年前に立てられた問いが今まさにわたしたちの置かれた状況に当てはまると感じ、本の幹に据えた6つの問いである。

自転車ははじめから「ちょうどいい道具」だったか

ここで一つ断っておくと、本書の中で確かに自転車は象徴的に語られる存在だが、ことさら自転車を礼讃したいわけではない。Netflixのドキュメンタリー「監視資本主義:デジタル社会がもたらす光と影(原題:The Social Dilemma)」の中で、トリスタン・ハリスは自転車の登場に怒る人はいなかったと語るが、そうではないという批判も実際にある。

自転車が登場したビクトリア朝時代には、新しいテクノロジーへの恐怖からくる自転車批判は数多くあり、特に女性が自転車に乗ることに対して、「(家にいるべき)女性が外に出るようになる」「(女性らしい)体つきや服装が変わってしまう」「出産や月経に悪影響がある」など、今では考えられないような批判もあったという。ある意味、それは自転車が人々に力を与えたコンヴィヴィアルなテクノロジーであることを物語っていると同時に、自転車でさえ、その登場時には不安や恐れを抱かせる存在だったとも言えるのである。

また移動のための道具についても、自転車に限らず、現代には現代の移動におけるちょうどいいモビリティはあるはずであり(CGにも登場するpoimoのようなパーソナルモビリティや、情報テクノロジーを使ってシステム全体として無駄をなくすMaaSもその提案の一つになりうるだろう)、また本書の大きなテーマは、イリイチの時代から存在した「移動」のような物理的な力をもったテクノロジーだけでなく、当時には存在しなかった、インターネットやスマホやAIをはじめとする情報テクノロジーにおける「ちょうどいい道具」とはどんなものかという問いである。

世代を超えたコンヴィヴィアリティ

もう一つ、安西さんに記事の中で引用していただいているのは次の一節である。

ここで注意しなければならないのは、わたしたちは、本来「つくれる」し「手放せる」はずの道具であっても、生まれたときにすでに存在していたものや、認知限界を超えて大き過ぎたり複雑過ぎたりするものを、まるで自然のようなものとみなしてしまう傾向にあることだ。

安西さんも指摘されているように、生まれた時から情報テクノロジーが当たり前に存在しているデジタルネイティブ世代にとって、デジタル環境はまさに文字通り「自然のようなもの」であるが、だからこそ生まれる新しい可能性に大いに期待すると同時に、それが自然ではなく「つくれる」し「手放せる」道具であることを知っている世代だからこそできること、伝えられることもあると思う。

「〇〇世代」や「Generation 〇〇」と一括りにはできない面はあるものの、人間の成長スピードやライフステージの変化のスピードはそう大きくは変わらないし、それに対して、インターネットの登場やコロナ禍といった世の中を大きく変えるようなインパクトのある出来事を、一生のうちいつ体験したかによって、やはりその世代のライフスタイルや考え方は少なからぬ影響を受けるはずである。また、自分の子ども世代のことは意外と身近でも、その間の世代との接点がないといったことも起きる。

そして今、こうした生物としての人間の変えられない世代交代のスピードに対して、テクノロジーの変化のスピードが待ってくれない状況もある。イリイチは「陳腐化」というキーワードでいきすぎた変化のスピードについて警鐘を鳴らすが、ではちょうどいい変化のスピードとはどんなものかを考えるとき、「世代」というものさしは間違いなく一つのヒントになるだろう。

次の世代と共に生きるためのテクノロジー、そして、(せめて)一つの世代にとって陳腐化しないテクノロジーとはどんなものか、改めて考えていきたいと思う。


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