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再起の物語 小説『デトロイト美術館の奇跡』

※本ブログは、大いにネタバレがありますので、ご注意ください。


 タイトルで銘打っている通り、本作はデトロイト美術館を題材に、その周辺の人物を描いています。

 視点人物は三人。元溶接工で今は年金暮らしのフレッド・ウィル、資産家で美術コレクターのロバート・タナヒル、デトロイト美術館のコレクション担当チーフ・キュレーターのジェフリー・マクノイドです。


 2013年。フレッド・ウィルは、しがないアフリカ系アメリカ人の老人です。上等な教育は受けていないし、生涯でした仕事も低賃金のものだけ。郊外にある築百年以上の持ち家以外にはろくな財産もない。その家も、銀行から担保とするのを断られるくらいの代物です。
 しかし、フレッドには日々の楽しみがあります。それは、デトロイト美術館に通うこと。そして、その度に《マダム・セザンヌ》の会って、心の中で日々のたいしたことのない報告をすることです。

 1969年。ロバート・タナヒルは独身の資産家であり、名の知れた美術コレクターでもあります。彼は品が良く、気のいい紳士で、買い集めた美術品をデトロイト美術館に寄付していました。
 しかし、《マダム・セザンヌ》は、自宅のリビングの一番見やすい場所に飾ってあります。なぜかって、彼にとって《マダム・セザンヌ》は毎日会いたいご婦人だったから。
 彼女は彼の死まで、タナヒル邸に留まり、死後デトロイト美術館に移りました。

ポール・セザンヌ作『マダム・セザンヌ』。新潮文庫『デトロイト美術館の奇跡』(令和2年1月1日発行)表紙より引用。


 美術館ということで、もちろんいろいろな美術作品が作中で出てくるのですが、キーになってくるのが、ポール・セザンヌ作の《マダム・セザンヌ》です。
 セザンヌは19世紀の画家で、美術史においては比較的新しい人物。《マダム・セザンヌ》は名前の通り、セザンヌの妻を描いた作品。暗い青色の服を着た、真顔の女性がこちらを見つめてくる。
 この絵画に魅了された――いや、この言い方は正しくないですね。絆された、というのが個人的に近いと感じます――男たちが、本作を彩ります。

 私は《マダム・セザンヌを直接観たことがない――そもそも、美術鑑賞にもさして興味はない――ので、その良さはイマイチわからないのですが、そこは原田マハ先生の筆跡、わからないにはわからないなりに彼らの思い入れを感じることができました。

 2013年。ジェフリー・マクノイドは、西海岸出身の、デトロイト美術館に勤めるコレクション担当チーフ・キュレーターです。

 私は美術に疎いので、キュレーターとは何ぞよと思って調べたのですが、作品の収集や展示、管理などを行っている人のことらしいです。

 仕事も家庭も順風満帆なジェフリーですが、なんとデトロイト市が財政破綻をしたことで、美術館の作品を売却する話が出てきます。
 お金持ちが美術品を買うのって、もちろんいろんな理由があるとは思うのですが、美術品は財産になり、しかも換金しやすいっていうものあるみたいなんですよね。

 デトロイトは、カナダと隣接する、アメリカ北部のミシガン州にある都市です。一昔前は自動車産業で栄えていました。美術館ができたのも、この時代。しかし、自動車産業の主流は日本を始めとする場所に移って久しく、今は主要な産業のない寂れた街になりつつあります。
 そんな時代の流れによって、市の財政は圧迫されていき、遂には破産してしまった、というわけ。

 ジェフリーが苦悩する中、一筋の希望が現れます。それが、フレッドでした。デトロイト美術館にある作品たち、そして《マダム・セザンヌ》への思いを語った後、フレッドはジェフリーに500ドルの小切手を渡します。
 市が財政破綻したのですから、500ドルなんてないも同然の額です。でも、貧しい年金生活を送るフレッドにとって、それは一か月の生活費の半分にあたりました。
 絵画を友と呼び、少しでも力になろうと行動したフレッドの姿に、ジェフリーは再び力を取り戻します。


 結果的に、美術館を救った策に、フレッド・ウィルという男は一切、関与していません。
 しかし、確かに、彼の熱意がジェフリーにも熱い気持ちを思い出させ、それが救済案へとつながっていくのです。

 かつて、アームストロングは、月への第一歩に次の言葉を発しました。

“That's one small step for a man, one giant leap for mankind.”

 一人の男には小さな一歩だが、人類には偉大な跳躍だ、と。
 側から見れば、老いた貧乏人の小さな足掻きが、繋がり繋がり、大きな動きになります。


 そして、2015年に時間は進み、デトロイト美術館は作品を売却することなく、この危機を乗り越えたのでした。
 そこには、美術館のボランティア・ガイドを始めようとするフレッドの姿がありました。


 この小説は、確かにタイトルにある通り、デトロイト美術館が危機に見舞われながらも、たくさんの人が力を合わせてそれを乗り越える、奇跡のお話です。

 けれど、そこにはもう一つの奇跡もあった。それは、晩年を生きていると思っていたフレッド・ウィルという男が、第二の人生を歩むまでのお話です。
 フレッドは本編が始まる前に、大切な妻を亡くしています。毎朝ベットで起きる度、隣りにふくよかな妻の感触を探し、その不在を感じている夫です。
 そんなフレッドですが、デトロイト美術館の危機が、受動的に生きていた彼を、立ち上がらせ、能動的に変えました。
 物語の終盤、フレッドは《マダム・セザンヌ》のいる後期印象派のガイドになります。ただ自分の胸の内のみで終始していたフレッドが、外界に乗り出したのです。

 本作『デトロイト美術館の奇跡』は、一人の男の再起の物語とも言えるのではないでしょうか。


 正直、読み終わった時、感涙が止まらない、という作品ではありませんでした。しかし、胸に来るものがある、いつの間にか目が潤っている、そんな作品だと思います。

 文庫本で120頁程の短い小説なので、ぜひ一読してみてください。


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