津村さんとぺぺが出会った日
ぺぺ(塚原)葬儀後、はじめて絓秀実さんと話す。
絓さんと仲良くなったのは俺よりぺぺの方が先だった。
絓さんは「あかね」やラスタ庵にしょっちゅう訪れては、泊まったりカンパくれたりおごったりしていた。そんな「文化人」は絓さんだけだった。
ぺぺや庵長(寿屋音)が同居していたラスタ庵には良く泊まっていたが、当時の「あかね」は腐敗している感じがして全然行っていなかった。
今は福島県に戻ったジョニーから良く絓さんの著作や絓さんとの交流についてレクチャーを受けていたのだった。
その後、早稲田大学のサークル部室撤去反対闘争に、早大の非常勤講師をしていた絓さんに協力/共闘を依頼することになる。
赤ん坊の塚原が高野実に抱かれてる写真がある。
俺も見せてもらった記憶があるが西大和団地にまだあるのだろうか。
塚原のおじいさんである俳人・塚原徹が碧梧桐門下の兄弟子である猪俣津南雄(奇しくも絓さんは猪俣が出た長岡中学の後身である長岡高校の出身である)を匿っていたときの句「マルキスト 鶏小屋に 安居かな」を聞いたのは確かぺぺ本人からだったと思う。
ぺぺとウマが合ったのは、埼玉県の団地出身者【私は団地ではないが、住居のスタイルはほぼ団地と同じ≪4人家族で2部屋、外出時も鍵は基本かけない≫だったので風通しの良さでは同じ感覚を共有している。窓の方から部屋に(そいつがいようといまいと)自由に出入りすることができたし、メシの時間までは思う存分みんなで遊んでいた。東大宮駅付近の新興住宅地のやつがイチイチ親にどこに遊びに行ってくるとか通知しているのを見て驚愕した覚えがある】特有の文化感覚/肌感覚が似ていたというのがあった。
個室の子供部屋が基本ないので、隣に人がいても読書したり勉強するのがデフォルトだし、全く気にならないとか、すぐ寝つけるとか何ならオナニーも精神集中すればできるといったところだ。意外とそのあたり重要だと思う。よく塚原ともそのへんは話し合った。
猪俣と長く愛人関係にあり晩年短期間結婚したシズ子さんが、猪俣死後 一番弟子だった高野実と結婚して生まれたのが津村喬さんで、絓さんが本邦における68年の思想家として決定的に重要視しているのが津村さんなのは皆さんもご存じだと思う。
絓さんは津村さんとぺぺを会わせるのが夢だったという。
その夢がかなった日、「あかね」でのイベントの日、さすがに出席したが、肝心の司会ぺぺはラリってたのかほぼ寝ていた。
でも津村さんも絓さんも嬉しそうだった。あの日に同席できて本当に良かったと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?