輪島さん、ありがとうございます!【太陽肛門スパパーン『円谷幸吉と人間』のために】   輪島裕介

音楽学者の輪島裕介さんより、太陽肛門スパパーン新譜2枚組LPレコード「円谷幸吉と人間」に関連して素晴らしい寄稿いただきました。
輪島さんのポピュラー音楽をめぐる深い考察にいつも刺激を受けています。
皆さん、熟読玩味して今すぐレコード店へGO!
「円谷幸吉と人間」購入のために。
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太陽肛門スパパーン『円谷幸吉と人間』のために   輪島裕介
これまでも漠然と感じていたことだが、日本の大衆音楽は前回の東京オリンピックのあとで決定的につまらなくなったのではないか? 
多分これは通念的な感覚とは逆だろう。むしろ、一九六〇年代後半以後、エレキやフォークやGSやニューロックやニューミュージックや、現在「シティポップ」と新たに呼ばれつつあるものを通じて、「本格的」に英語圏の若者音楽を摂取し、次第にその距離を縮め、「追いついて」(時には部分的に「追い越して」)いった、その過程こそが日本の大衆音楽の歴史である、という理解は、少なくとも占領期生まれの(単なる世代的属性ではなく、占領下の大都市、とりわけ東京を基本的な生育環境とし、それを屈託なく肯定的に捉えうる特権的な層、ということでもある)音楽家や批評家、その影響下にある後続世代に共通する認識だろう。そうした、英語圏の白人若者音楽を「お手本」とすることを疑わない心性は、もしかしたら「世界に冠たるトーキョー」での「非白人国初のオリンピック」の「成功」体験とも重なっているのかもしれない、と今回の無残なオリンピックとそれにまつわるあれやこれやを横目で眺めながら思っていたところ、『円谷幸吉と人間』を聴いてさらにその意を強めた。
近代オリンピックが19世紀の人種主義と帝国主義と共犯関係にあることはいまさら言うまでもない。植民地独立が相次ぐ20世紀の後半にもなって、お気楽に「非白人で唯一先進国の仲間入り、というか復帰」に浮かれていたのは歴史の潮目を読めないにもほどがある。唾棄すべき「名誉白人意識」が(ふたたび)顕在化するのが1964年東京オリンピック以降、という主張はさらなる検証が必要だが、見立てとしてはそれほど外していないと確信している。一方それは帝国の記憶の回帰でもあって、軍隊式の非合理な暴力を通俗的に美化した「スポ根」の流行は、円谷幸吉を追い詰めた背景の重要な一部だろう。
『円谷幸吉と人間』は、19世紀末の自由民権運動を参照したにちがいない「ダイナマイト、どん」から始まる。オリンピックのみならず、「日本の近代やりなおし!」の号令のようにも聞こえる。「白人性」とオリンピックの共犯性を暴露する上で、BLMとメキシコ五輪のBlack Power Saluteへの言及は必須といえる。この文脈でのラップの導入、とりわけなみちえの参加は決定的に重要だ。「ハート・ブレイク・ドール」のカバーも秀逸。日本における「歌謡曲」と「R&B」の象徴的な親和性に思いを致す。
本作で2つの東京オリンピックを結んで復活する円谷幸吉は、空襲・原爆・水爆実験の犠牲者を暗示する「ゴジラ」を思わせる。第一作『ゴジラ』でみられる、帝国と被曝と敗戦と占領の記憶の、矛盾を孕んだ複雑な重層は、とりわけ1964年以降失われるものかもしれない。
扇動的かつ情動的な声と言葉、個々の自由の最大化によって成立する組織的演奏、そしてジャケットからライナーのすごろくやテキストまでを一貫する強力な想像(妄想)力は、アナログレコード二枚組という、過去の「コンセプト・アルバム」の常套的な形式を批判的に蘇らせている。あたかも円谷幸吉を蘇らせたように。

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