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卒業研究Ⅰ 中間発表会を終えて

こんばんは。はいさんです。
卒業研究の中間発表会が終わったので、内省をしていきます。

私は前日にカンペを用意していて、4分で収まるように練習をしていました。ですが本番ではカンペを見ずにペラペラ話すことができました。ゾーンに入っていたんですかね…。

「言葉の聲に立ち止まり、社会的行為を促す文字のデザイン」

この「言葉の聲」について質問があって、その時とっさに自分なりに回答したが、「言葉の聲」とはなんだろう。
例えばだが、インターネットの中の小ゴシック体の言葉たち。あの言葉たちの深層を捉え、考えている人はどのくらいいるだろうか。
ネットが日常の大半を占める私たちは、同フォントの言葉たちを無意識に流し見しているのではないか。
言葉を表面的に見すぎているのではないか。
もっと「言葉」の中の情報を見てほしい。聞いてほしい。その「言葉」が私たちに何を言っているのか。訴えているのか。

また、社会的行為・内省的行為を促す言葉は社会の中にたくさんある。
例で出したゴミ箱のように、モノに付随したものもある。
そのモノに付随した言葉を題材とするのか、言葉の文字そのものをデザインするのか。
私はどちらもやりたいと思っている。
モノに付随した言葉なら、そのモノに対する意識の変化、言葉そのものなら生きる上での意識・行動の変化につながるかもしれない。どちらでも最大限言葉が生きる表現技法を目指す。

社会的行為・内省的行為の最終地点

中間発表会終了後、集められた自分へのコメントをみた。
肯定的なコメントが多く嬉しかったが、中には「胡散臭い」というものもあった。以前ネットでピグマリオン効果について調べた時も「皮肉に聞こえる」という意見もあった。
全ての人に内省的行為・社会的行為を促すことができるとは思わない。
否定的に思う人は一定数いると思う。
この研究は便利なモノやサービスの開発でも、解決案の提案でもない。

私はこの研究で社会的行為を押し付けたいとは思わない。
「悪口を言ってはいけない」「肯定的なコメント以外はするな」ということを言いたいのではない。そのような言葉を表現したいのではない。
多くの人に、この研究で表現された言葉で少し立ち止まってほしいのである。その後どう行動するかは個人の判断に任せたい。
言葉の表現の仕方で人の意識が変化する可能性を見出したい。

ここで「あなたは社会的行為ができる人間なのか」と言われることがあるかもしれないので、自分の考えを記しておこうと思う。
21年の人生で「人の悪口を言ってはいけない」という言葉をよく耳にしてきた。
それは学校という狭いコミュニティでのイジメ、ネットという自由な発言の場が身近にあるからだと思う。
人の悪口を言わない人なんてほんの僅かなのではないか…と個人的には思う。人間には必ず合う・合わないがある。感情があるから当然である。妬みや恨みなども悪口につながると思う。
発散したくて口に出したくなる。口に出せなくて蓄積されるのを回避するためネットに書き込む。発散方法は人それぞれである。

私も人の悪口を言ってしまうことがある。心を許した友人に限るが。(ネットには書き込まない)
だが話した後、「口に出して良かったのだろうか」と思ってしまう。
手遅れだけど…。
あとあと後悔するなら言わなければいいと思う…とても思う…が、言ってしまうのが人間なのだろうか。口に出てしまう。
言わないって難しい。鎖が重すぎる。
そう思っていた時に、私の好きな作曲家の新曲にあった
『誰かを傷つける言葉は直接面と向かって言いなさい』という言葉。
この言葉に私の意識は少し変化した。
「言うな」ではなく「面と向かって言えるくらいの覚悟を持って口に出しなさい」に変化した。鎖がだいぶ軽くなった。
言葉の表現方法によってここまで違うんだと実感した時だった。
だから誰かの悪口を誰かに言いたくなった時、その言葉に責任を持てるか自分に問うことができるようになった。

内省的・社会的行為を促す言葉を探し続けようと思う。自分のためにも。

今後の展望

・言葉の記録方法について、横溝先生のラジオ収録などで実践した方法を展開していく
・その他様々な言葉の記録方法を実践していく
・言葉の記録を軽やかに、色褪せさせないようにする
・人の発言から重要な言葉のドキュメントを汲み取る

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