なぜ「Wonder NeverLand」がこんなにもオタクの胸を打つのか
※この記事は、この世に生を受けた一介のVtuberが好きなことを好きなように語ったエッセイっぽいものです。
さて、いきなり本題。
去る2月25日、にじさんじ公式より「Wonder NeverLand」のリリックビデオが公開された。
このnoteのタイトルを見てリンクを踏んでくれた諸兄諸姉ならとっくに視聴済と思うが、万が一未見の人がいたら今すぐ見てほしい。なんならにじさんじファンじゃなくてもぜひ見てほしい。
総勢12名のにじさんじライバーが朗々と高らかに、未来に向けた詞を謳う。
(俺自身はファン歴は浅いので、恥ずかしながら既存楽曲の「Virtial to LIVE」との関係性などはこの場で詳しく書けないが)、ライバーの姿を一切映さない文字とシンボルマークからなる象徴的な映像美に心惹かれた人も多かろう。俺もそうだった。何ならちょっと泣いた。
楽曲と映像の完成度が非常に高く、3年間の集大成として相応しい神曲という声に異論はないと思う。ないよね。ないです。
ただ、一歩引いてこの楽曲を俯瞰した時に見えてきたものがある。その見えたものこそ、無意識のうちに我々オタク(クソデカ主語)がこの曲に惹かれた理由なのではなかろうかと、僭越ながら一オタクとして筆を執った次第なのである。
※以下、俺の妄想と思い込みによる独りよがりなクソデカ感情の発露が続きます。あくまで一個人の感想と解釈によるものであるため、その点ご留意ください。
“Wonder NeverLand”が表す2つの物語性
Wonder NeverLand、やや意訳すれば「奇跡のようなネバーランド」。
ディズニー映画としても有名なピーターパンに登場する、いつまでも子供のままでいられる魔法の国が意図するように、『いつまでも僕ら子供のまま遊び続けよう』といった、子供のように無邪気に、楽しくあることを肯定する歌詞が多く含まれている。
映像にもそれは表れており、サビに登場する手書き風なひらがなの歌詞や、『遊び続けよう』という歌詞が固い明朝体ながら斜体になっていることから、まるで「大人だろうと遊んで何が悪い」と言わんばかりのメッセージをめっちゃ感じる。
今もなおトップを張り続ける月ノ美兎委員長を筆頭に、各々が各々の色を以てゲーム・歌・企画・ラジオ・B級バラエティと遊び続ける彼ら彼女らを明に表現していると言えよう。
しかし、ここで一つ気になったことがあった。MVの冒頭とラストに登場する時計である。
ピーターパンでは確かにロンドンのビッグベンこそ登場しているが、0時へのカウントダウンという点で言えば、それが意図するのはむしろ童話のシンデレラだろう。
0時になれば解ける魔法の中で、灰かぶりの少女は夢見ていた舞踏会で奇跡の出会いを果たす。そう考えると、にじさんじが駆け抜けてきた3年間はまさにシンデレラストーリーに他ならない。
(重ねて言うと俺自身ファン歴が浅いので当時の苦悩は寡聞にして存じ上げないが)ここに至るまでに各ライバーが乗り越えてきた苦悩や涙は数知れない。
デビュー当初は洗濯機の上から配信していた委員長、人生のどん底から這い上がって憧れのVtuberと共演するに至った舞元おじさんなど、語り始めればそれだけでnote数件分になってしまう。
ともあれ、そういった彼ら彼女らの物語、シンデレラストーリーこそ、冒頭で0時直前を指し示す時計なのである。(諸説あります)
ただ、ここで終わらないのがこのMVのすっげぇところなのだ。
MVの冒頭で時計は反転しており、時間の逆転、つまりはこれまでの振り返りを表現している。(諸説あります)
しかしそれは数瞬で終わり、時計は翻り、節目である0時に向けて進み始める。
『今日も息をしている僕ら』が『見えないくらい遠い先へ今日もうたう』ことで『いつか見た夢は明日になる』ことを目指した歌だとすれば、振り返る暇もないほどに今日と明日をただ見つめているのである。(諸説あります)
そして、シンデレラの魔法は0時で解けるが、僕らが見た夢は0時では終わらない。なぜならここは「Wonder NeverLand」、奇跡が終わらない国なのだから。(諸説あります)
「Neverland」ではなく「NeverLand」なのも、そういう含みがあってのことなのかもしれない。(諸説あります)
もうこの時点で駄目である。オタクという生き物はダブルミーニングが大好きなのでこうかはばつぐんだ。目から出たハイドロポンプでドサイドンがやられた。
時計のモチーフだけでここまでの解釈(もとい妄想)が広がったので、全考察厨はMVを製作してくださったろくんしさんのことを一回崇め奉った方がいい。
“君”と“僕ら”が指すもの
そしてもう一点、MVのコメント欄を見ていて感じたことがある。
時期が時期故に、大学受験の真っただ中で勇気づけられたというコメント。他にも、「デビュー当時のtwitchの配信で知った」「一昨年の冬コミに行っていなければハマっていなかった」「友人の紹介で」「つい最近知った初心者だけど」など、ファンの出会い方、今日までの在り方も様々だ。
そしてそれは推しの推し方にも繋がる。100人のライバーがいれば、どのライバーがきっかけでにじさんじを知ったか、単推しから箱推しまで今どう推しているかもファンによって当然様々。
そんなクソデカい多様性こそ“虹”さんじの持ち味であり強みであることは、これを読んでいるファンの皆さまなら当然ご存じのことだろう。
「こんなにたくさんの歌声があるのにどれが誰なのか聴き分けられるくらいにハマっていた」というコメントもまた、これを如実に表している。
で、ここでちょっとだけ待ってほしい。
にじさんじのライバーが虹色ならば、我々ファンだって虹色と言えないだろうか。年齢性別職業に出会い方推し方何もかも異なるのだ。「にじさんじファン」が指すものはあまりにもデカく、広すぎる。
(余談だが、いつかの力一さんの配信のお便りで、高齢のリスナーの方がいらっしゃることに大層驚いた記憶がある。いいよね力一さん、俺も好きです)
そこで、「僕ら:ライバー/君:ファン」としていたところを、思い切って逆転させて「僕ら:ファン/君:ライバー」としてみるとどうだろう。
鬱屈とした現代社会の中で『今日も僕ら息をしてる』、『少しずつ足踏み出して試行錯誤繰り返して』、それでも『いつまでも僕ら子供のまま遊び続けよう』なのだ。
『落書きのような未来予想図もたくさんの色で満たしてバラバラのパレードは続く』は、当然ここまで不断の努力を続けてきた多種多様なライバーを表した詞である。あるのだが、もしも全然バラバラのにじさんじファンが『賑やかしく君に届けよう』とするならば、それが何気ないコメントや応援のメッセージのことだとしたら──。
『届く声は波になって僕らを連れていく』、その結果『ずっと聞こえてた声たちが虹色に輝いたらいつか見た夢の続きになる』、サラッと書いているけどこれを公式楽曲が描くのってとんでもないことだと思うんすよ。(諸説あります)
これは何も俺だけの都合のいい誇大妄想ってわけではなくて、その裏付けっぽいものもあるのだ。(マジで諸説あります)
Cメロが終わった後の大サビ頭、背景のMVでスマホを介して光が往復して色づき、それが溢れて大きな光になる…これってライバーが我々ファンに楽しいコンテンツを提供してくれるのと同時に、ファンもライバーに何かを届けている、ということではないだろうか。俺はそう思った。やっぱりろくんしさんは天才だと思う。(マジで重ねて言うけど諸説あります)
(再び脱線すると、この色彩豊かなMVにおいてこそ「色づく」という演出がやはり印象深いというか、『落書きのような~』から始まる黒い枠が『賑やかしく君に届けよう』でカラフルになるのとか妄想が捗るんですよマジで)
それならばMV中に一切ライバーの姿が出てこないのも合点がいく。
敢えてライバーの存在を名前とシンボルマークに留めて散りばめることで“僕ら”を固定化せず、その境界をぼかすことで2つの意味を持たせる。だからこその抽象的な映像であり、まさに伏線回収の時間である。(マ重言諸説)
オタクという生き物はダブルミーニングが大好きなのでてぇてぇのアナフィラキシーショックでそろそろ死人が出る頃だろう。やっぱりろくんしさんは天才だと思う。
“さんざめく”4年目のにじさんじ
で、ここまでの内容を踏まえた象徴的な単語が“さんざめく”なのだ。
“さんざめく”は、本来の意味は「賑やかに騒ぎ立てる」という意味で、そりゃあもうにじさんじらしいワードとしてとてもしっくりくる。
しかし一方で、森山直太朗の楽曲「さくら」の歌詞等にもあるように、まばゆい光がちらつく様も表すことがある。
虹は空気中の水滴が太陽光を反射して為す自然現象であり、ここでの虹と光は当然“君と僕ら”であるし、“僕らと君”だ。
(MV中の『どこまでもさんざめくかぎり』のシーンがオレンジをベースとしていることからも、太陽の光をイメージしていることが読み取れる)
ていうかほらまたダブルミーニング来てるよこれ。死んでゴーストタイプになったオタクにおいうちは駄目なんだってば。
それが『夢中で走った足跡に笑う声が重なっていつか見た空の続きになる』のだからもうオタクの涙腺は耐えられない。
ワクチン開発により希望の兆しを見せつつあるものの、未だなお予断を許さぬ閉塞的な世界情勢の中、『どこにだっていける場所で』『どこでもない世界の中で』『どこにでもある日々の中で』、そこから見えた景色が『いつか見た空の/夢の続きになる』という、まるで青空のように突き抜けた、まっすぐに背中を押してくれるメッセージ。
そして、空に虹がかかる奇跡のような瞬間は今日も明日も、4年目もずっと続くと彼ら彼女らは謳うのだ。
作詞作曲を担当されたkzさんは一体何食って生きてたらこんなセンスを身に宿せるのだろうか。前世で相当な徳を積まれたんだろうか。こっちの情緒はクソザコもやし野郎なのでそんなに山盛りの尊さでぶん殴られると身が持たないんだ。もうホント勘弁してほしい。
3周年という晴れの日にこんなにも晴れ晴れしい楽曲に出会えたことを、一ファンとして心から嬉しく思うのと同時に、4年目のますますのご健勝、ご活躍を祈るばかりです。
以上、限界オタク特有の早口妄想垂れ流し長文でした。
(ホントは「これだけ個性がバラバラなのに統一感があるのは全編を通してハモりなく同じメロディーを歌っていてそれはさながら虹のよう」とか楽曲の妙にも触れたかったけど収拾がつかなくなるので止めました)
これを読んだ方が改めて「Wonder NeverLand」を聴き直した時に、少しでも心に響くものがあったならば筆者冥利に尽きます。
最後に、素晴らしい楽曲を創り上げてくださったライバー、制作陣、いちから株式会社、そしてファンの皆さまに、この場を借りて深く御礼申し上げます。
…初めてのnote投稿がこんな感じでよかったんだろうか。まぁいいか、個人Vの活動なんだし色々自由に書いてなんぼですわ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。長くてすんません流石に長すぎっすよね俺もそう思います。ここまでこの曲やにじさんじを拗らせてると思ってなかったんすよビックリです。
今後もこういった「好き」を気の向くまま思うままに書いていく予定なので、お気に召したら「スキ」やTwitterのフォローやRT等々よろしくお願いします。
(追記)
この記事の原文を書いたのが大体2/27頃、そしてその翌日のkzさんのツイートがコレ。
やっぱり双方向じゃないか!!!!!! 君と僕らで僕らと君じゃないか!!!!!!!!!!!! ホント大好き!!!!!!!!!!!!
もう無理だ、kzさんが時間を動かしてろくんしさんが空間を創造する傍らでオタクは十字のツメを食い込ませて壁や天井を這い回ることしかできない。ポケモンダイパリメイク+新作発表おめでとうございます。
(追記2)
シンデレラについて触れたならば、彼女のことについても触れねばならないだろう。
3月10日、にじさんじ所属ライバーの御伽原江良嬢の卒業が発表された。
かの有名なゴミカス配信をはじめ、彼女から多くの楽しさをもらったファンの一人として、その前途に幸多きことを願ってやまない。
そして、彼女の門出を祝う戌亥のとこたゃの言葉を借りて、この記事を締めたいと思う。
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