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音声で起業するーー。その原体験となったアナウンサーの父のこと 【声の履歴書 Vol.29】
こんにちは。Voicy代表の緒方憲太郎です。
この「声の履歴書」という連載は、Voicyがこれまで歩んできた道のりについて創業者の私があれこれ語っていこうというシリーズです。よかったらマガジンをフォローしてくれると嬉しいです。
今回は僕と起業、そして音声メディアの原体験について書いてみます。
まずは大きな影響を受けた父親の話から。
父親の仕事はアナウンサーだった。
僕の父親はアナウンサーでした。大阪の毎日放送(MBS)のアナウンサー。
でも子どもの頃は、親の仕事なんてよくわかりませんでした。
ドラマとかでオフィスっぽい場所で電話が鳴って、「はいもしもし」っていうシーンだけ見て、こういうのを「仕事してる」っていうんだなくらいの認識しかなかったんですよね。
アナウンサーの家庭に生まれているということが、あまり普通じゃないんだなと感じたのは小学校に入った後からでした。
TBS系列のMBSのアナウンサーで毎晩ニュースも読んでるし、『ヤングタウン』というラジオ番組でパーソナリティもやっていたので、それなりに出ていました。道を歩いてると指を差されるんです。
ヤングタウンはいまも続いている関西では人気の番組で、関東でいえば『オールナイトニッポン』と似たような位置づけだと思います。
ちなみにこれが歴代の『ヤングタウン』の出演者。これが歴代パーソナリティの年表です。かなり細かいのでぜひMBSのサイトで見てみてください。
1995年〜1999年あたりはもう全盛期で、松村邦洋、シャンプーハット、岡本真夜、明石家さんまと村上ショージ、笑福亭鶴瓶とかがパーソナリティをやっていましたね。
土曜日はもう20年以上ずっと明石家さんまが続けています。それくらいめちゃくちゃ愛されてる番組です。
これの一番上、1970年のところにいる「緒方憲吾」っていうのが親父。番組の初期からやっていました。
家で滑舌の悪いしゃべり方をすると怒られた
子どもの頃、台風とかがあるとだいたい親父がいなくて、テレビの向こうで「こちらでは…」みたいな感じでしゃべっていました。
覚えているのが、話し方にはすごくうるさかったこと。滑舌の悪いしゃべり方をすると怒られましたね。そのせいか、親父と同じようにアナウンサーになろうとは思ったことがなかったです。
ただ、メディアの世界というのはすごい面白いんだろうなと、なんとなく感じていました。話したことを多くの人に届けられるのは面白い仕事なんだろうなと。
うちのおかんは嬉しそうに、親父が出ているラジオ番組をカセットに録っていました。家には山ほどカセットテープがありましたね。
アナウンサーとかキャスターへの憧れはなかったんですが、声で何かをやりたいというのは少しだけ考えていた気がします。
ユーザーがいないからリリースに父親の写真
頑固でとても厳しかった親父ですが、僕がVoicyを起業したことについて、親父は「なんでもお前がやりたいようにやったらいい」と言っています。
ただその事業内容が、メディアや音声に関わることであるのは、こっそり誇らしく思っているんじゃないかなぁと思います、本人は絶対言わないけど。
そういえばVoicyがリリースしたとき、社員もユーザーもいないから、なぜか親父の写真をユーザー代表みたいに載せていましたね(笑)
この昔のロゴ右側のおっさんが親父です。
アナウンサー時代の宣材写真ですね。
親父はテレビ・ラジオの全盛期に放送局で仕事をしていて、本当に皆さんに握手されて「頑張ってください」って応援された初期の時代から、最近だとひどい時はマスゴミって言われて非難されるところまでを経験していました。
そんな状況の中で、次の時代を作るかもしれない何かを息子がやっているみたいな、そんな感覚があったんだと思うんですよね。「やりたいようにやったらいい」とだけ言いますが、僕にはそこに含まれる想いがわかる気がします。
Voicyを使ってくれなかった親父
はじめにVoicyのアプリを作ったとき、アプリ内でニュースを読んでくれる人が必要でした。僕はまず親父に読んでもらおうと思ったんですよ。
親父に読んでもらうためにiPadを買ってきて、字を大きくして見やすくして読んでもらったんですけど、結局そのあとVoicyは使ってくれなかった。
親父は定年までアナウンサーじゃなかったんです。アナウンサーの多くは途中から引退し編成部や何やらといろいろな部署に異動があります。
若い人の方が人気になりやすいので現役でいられるのはせいぜい50歳ぐらいまでだったりするんです。親父も最後はアナウンサーの仕事はしていなかったんです。でもきっと親父の声をまだ楽しみにしていた人はいたと思うんですよね。
誰でも死ぬまでいつでもどこでも自由に話せるはずなのに、声の仕事は環境を与えられないと全く活躍の場を失うものだったんです。
そんな人達に新しい自由に声を届けられるツールを作れたことは自分の中でも自分から見た親父にとっても画期的なものだと思ってました。
でもね、定年後になってiPadに向かって自分の声を入れてみて、あまりの声の劣化と口の回らなさにすごいショックを受けてしまって、「やらない」って言われてしまいました。プロ意識が強いんですよね。
親父が自分の声が劣化したというのを感じてショックを受けているというのを見て、まだ親父が活躍できると思ってた息子にも複雑なものがありました。きっと活躍の場がずっとあれば今ももっといい声が出てたと思う。
そのとき、しゃべって人を喜ばせられる人がいつまでもしゃべれる場所を作るのも自分の使命かもしれないと思いました。
親父、Wikipediaのページもあるんですよ。
本人は「なぜか自分より詳しく書いてある笑」なんて言ってました。いつの日か「緒方憲吾、息子はVoicyのCEO」みたいな項目が追加されるくらいのサービスになるといいなと思っています。
ーー次回は生まれ育った大阪と、若い頃にハマったラジオについて書きます。どちらも音声と深い関係があります。引き続きよろしくお願いします。
声の編集後記
音声では毎回ここには書けない裏話をお届けします!よかったら聴いてみてください。
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