ホーソーン『緋文字』を読んで
ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』(光文社古典新訳文庫、2013)を読んだ。
イギリスから新大陸に渡ってまだそんなに経たないニューイングランドで、美しい女性が処刑台に立つ。胸にはAの緋文字と不義の子を抱いて。しかし父親を明かさないまま、村の片隅で7年の時を過ごす。
緋文字を巡る大人3人の中で、へスターは唯一身を隠したり重大な秘密を隠したりすることなく、徹頭徹尾自分の罪を認め、衆目に(緋文字として)晒している。物語中の独白もほぼ全てへスターのものだ。
正直で献身的なへスターに読者は感情移入し、もう一人が告白をするシーンにカタルシスを感じる。そのせいでめでたしめでたしとはならないのだが、罪を背負って生きてきたへスターを追ってきた読者としてはこちらの結末のほうがすっきりするはずだ。
3人のうちへスターただ一人が生き残る。生き残ること=緋文字を晒すこと=贖罪であり、お相手のように贖罪を果たすこともできず命が尽きるのではなく、罪を犯した人間として、人間らしく生きていくには生き残るしかなかったのだろう。へスターのその後を想像すると、息のつまるような苦しさと同時に確かな希望を感じた。
さて、先祖が異教徒を迫害したという歴史がそうさせるのか、(罪逃れに)ピューリタンの因習をバカにしているところがあって、そんな中でパールの存在が目立つ。
周囲の大人は大陸で生まれ育っていて、新天地で規律を持って、それでいて「新天地に住まう自分たち」らしく生きていくために、無理がある、筋が通らないようなことでも受容しなくてはいけない。
社会から隔絶されているようで商売等で社会と繋がっている母やほか2人もやはりそのようなルールに従っているのだが、母親以外の人間とほぼ接触のないパールはあくまで自由だ。
自分の感情に正直で、思っていることはすぐ口に出す。7歳の女児にしては幼いが、社会のルールに縛られないパールはむしろ徹底的に「ピューリタン」である。そしてしきたりや暗黙のルールを無視するとしたら、あなたはどうするの?何を思うの?と繰り返し大人に問う存在として機能している。
最近ミニマリズムの作品ばかり読んでいたので叙情的で寓話的な作風にはじめ違和感を覚えつつも、結局は楽しく読めた。
子の父が誰なのかなんて最初にへスターが出てきたシーンからすぐになんとなく分かってしまうのに、船に乗れるか乗らないかのシーンとかハラハラする部分もちゃんとあるのがすごい。
あと突飛な行動をするパールを「本当に私の子?」ってへスターが思っちゃうあたり、同じ母親としてやたらにリアルでドキッとしたんだけど男性のホーソーンがこういうのどうやって書けたんだろう。すごい。