井上ひさし『國語元年』を読んで
岡本綺堂の『半七捕物帳』なんかを読んでいるとしばしば「私のような旧時代の人間からすると…」とか「昔の人は…」という台詞が出てくる。
これを発しているのは江戸末期に岡っ引きとして活躍した半七老人で、明治期に新聞記者である「私」に向けて話しているところなので、当然「旧時代=江戸時代」「昔の人=江戸時代の人」である。
さらに半七老人は「今の人から見たらお笑い種かもしれませんが、昔の人は真剣に信じていたんですよ」とか「昔の人はのんびりしたもので…」とか、愛情を込めながらも結構江戸時代をサゲる。
今の人からしたら信じられないでしょう、と「旧時代」の人間を自虐するのだが、この時点ではせいぜい3、40年前の話である。それほどまでに変化が早く大きかったのだろうというほかに、「新時代」に比べたら「旧時代」は程度が低いのだ(低くあるべきだ)という考えを広めたかった新政府の思惑も感じる。
この本は、そんな新しい明治の世に適応するため、方言を廃し統一された「國語」を設けろと上司に命令され、悪戦苦闘する官吏の日々を描いた戯曲である。
主人公である清之輔はひどく真面目な人物で、上からの無茶な命令にどうにか応えようと様々な方法で「全国統一話し言葉」を作成しようとする。
その様子が、コロンブスの卵ではないけれど、結果としてどのように標準語が設定されたかを知っている現代人からするととても滑稽だ。
が、この「旧時代」の人々を面白おかしく楽しめば良いんだな、と思っているとラストでひっくり返される。なんだこの救いのないオチは、とびっくりしてしまう。
コメディでないことに気付いた後に読者ははっとする。
あれ、待てよ?この人たち「旧時代」の人間でもなんでもなくない?
と。
前述のとおり愚直な清之輔は、現代人からするとありえないような方法で問題を解決しようとする。
けれど前代未聞の課題を前にしたら、誰だって手当たり次第に非科学的なことまでするだろう。悩んで悩んで、宗教に走るのと何も変わらない。
権威だけはあるオッサンに惑わされたり、どこからくるか分からない謎の忠誠心で自分を犠牲にしてでも主人から受けた恩を返そうとしたり、清之輔やその周囲の人々の「旧時代」っぷりを、私たちは笑えないのだ。
この戯曲が発表されたのは「24時間戦えますか」の時代、1984年だ。
きっと清之輔を心から笑えた人はいないし、そこから40年経った今だって、半七老人のようにあの頃を「旧時代」だと笑える人はいないだろう。