ブローニャにおける真理のハイデガー的転回


D-rank Valkyrja
※ メインストーリー第33章のネタバレを含みます。


共同存在を手掛かりとした頽落からの帰還

 ハイデガーは, 「現存在が本質上, おのずからにして共同存在である」(Heidegger (1927), p. 264)という. ほかの人びとの開示態によって形成された実存論的な有意義性=世界性のなかで, 現存在の存在了解にはあらかじめほかの人についての了解も含まれている. このようにして, 「共同現存在は, 世界の内部に居合わせる存在者の固有の存在様相であることが知られた」. (ibid, p. 274)

 ブローニャは一人で戦わなければならないという. 「理の律者にとって, 『一』と『三十万』に違いはありません. 」コアを構成する三十万の「ほかの人びと」, つまり共同現存在に対して敬畏の念を抱くのではなく, 共同現存在を「征服できるものとして扱わなければなりません. 」ここで言明されているのは, 彼らが固有の世界を把持しているという観念を放棄し, ブローニャが自らその有意義性に向かって投企しているところの世界の形成に, ほかの人びとも参画していると理解している, ということなのである.

 「『未来』だけが『現在』に勝てる」. ブローニャは共同存在, 三十万の叡智を手掛かりとして, おのれの可能性を握持することによってハイデガーの言う頽落から回帰し, 世界へおのれを投企するに至った[1]. このきっかけを作ったウサギは, ブローニャによれば「力」たる「形式」を奪ったに過ぎない. 「『理の律者』の名を今まで伝承することができたのは, その『力』と『意思』がとっくに融合して」いたためであり, イデアたるウサギには「意思」がないと喝破する. これは, そもそも現存在ではないイデアは(進化するということがないから)可能性を存在する, すなわちおのれを投企することが不可能であるという点を指していると思われる.

 この点で「初代」ウサギは理の律者となることが可能であったが, ならなかった. これは「初代」ウサギによって一度殺されたブローニャが復活し, 両親を亡くして放浪し, 怪物(トラロック)を退治し[2], そしていま英雄になろうとしている. この物語はブローニャの英雄譚であり, そのためには超自然的出生が必須であったのである. この英雄譚はウサギからみればブローニャの母アレクサンドラを殺したことに対する贖罪の物語であり, ブローニャを英雄たらしめる意図をもって自らの現存在を滅しイデアへと転身した, 転覆した神話であるのかもしれない.

 「そうなると――この戦いの布石はむしろ『同工異曲』と言えるわね. 」

 それでは, なにゆえ頽落から帰還したブローニャが「真理の律者」となるのか.


真理性の転回

ハイデガーにおける真理性

 ハイデガーは真理の本質についての伝統的な見方を以下のように理解する;①真理の「ありか」は言明である. ②真理の本質は, 判断がそれの対象と「合致する」ことにある. そして, カントもこの前提を堅持しているとみる.

 ここで, 真理性は(客体的に存在するかしないかいずれかである)実在的判断作用としての対象と, (真であるかを判断される)理念的意味内容としての判断された事柄たる認識の合致という構造を備えておらず, むしろ言明において「志向された存在者そのものが, それがそれ自体においてある通りのありさまで現れてくる. すなわち, それが言明においてしかじかに存在するものとして挙示され発見される通りのありさまで自同的に存在しているということをあらわしてくるのである. 」それゆえ, 「言明が真であるということは, それが存在者をそれ自体のありさまで発見するということである. 言明は, 言明し挙示する, すなわち, 存在者をその被発見態において『見えるようにする』(άπόφανσις). 言明が真であること(真理性)は, 発見的であること(entdeckend-sein)として理解されなくてはならない」(ibid, p. 453).

 つまり, 伝統的に対象-認識の合致が真理性の要件であるとみなされてきたところ, ハイデガーは言明そのものが発見的であった場合に, 対象をまつことなく真理性が認められるというのである. ここにおいて知覚は言明された存在が言明によって志向されたものであることを確認する機能を営むに過ぎない. 真理は既に決しているのである.

現存在の本来的真理性

 発見することは, 世界=内=存在の存在様相の一つであって, そのようなものとしての配慮によって発見されていること, すなわち被発見態は, 「世界の開示態にもとづいている. そして開示態とは, 現存在がそれに応じて己の現を存在するところの根本様相である」. 開示態は一方で≪おのれに先立って―内世界的存在者のもとにあることとしての―世界の内に既に存在すること≫」(ibid, p. 458)という形で現存在の関心の構造のうちにあるから, 現存在は, 開示態を通じて真理を把捉する.

 それゆえ, 「現存在が本質上おのれの開示態を存在し, このように開示された現存在としてものごとを開示し発見するかぎり, 現存在は本質上『真なるもの』である. 」(ibid, p. 458)同時に, さしあたってたいてい現存在は「世界」の中に自己を喪失しているという形で頽落しており, 「非真理」の内にある.

 つまり, 現存在は世界におのれを開け広げるという形で「世界に向けて, すなわち有意義性の全体へ向けて投企されている. そして世界=内=存在としての配慮は, その有意義性の指示連絡のなかに, はじめからおのれを定着させているのである. 」(ibid, p. 327)ところ, 現存在が世界を認識するにあたって有意義性におのれを投企していることにつき覚醒している, つまり己の可能性を存在するという形で存在を了解することによって, 現存在は真理のうちに貫入するのである.

ブローニャにおける真理性の転回

 それゆえ, 世人を超克し頽落から帰還することによって「非真理」から脱却したブローニャは, 真理を言明することができる. 彼女の言明はつねにすでに発見的であるから, おのれがそこへむかうところの未来を発見し, おのが手で真理を現出させしめることが可能となるのである.

 「ブローニャはみんなのために, 世界を再定義します. 」


参考文献

Heidegger, M. (1994). Sein und Zeit[存在と時間]. (S. Hosoya Trans. ) ちくま学芸文庫. (Original work published 1927)



[1] これは対ウサギ戦において凡庸な「世界」がブローニャの行動を予測できたことと整合する. この時点でブローニャはまだ「世界」のうちに頽落しており, 集合的に作り出される見かけだけの本来性, 「世界」の「了解」に依存する世人das manであるがゆえに, 「世界」はブローニャの行動を予測できるのである.

[2] なお, この点, ブローニャの量子の海での放浪とオデュッセイアが関連付けられると思われるが, ブローニャとオデュッセウスの関係及びアステカ神話の関係は他稿に譲る.

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