サンクコストの対処、そして前に進むために。

せっかくなら、の危険性

もし君が映画を見に来たとしよう。2000円のチケットを買って、席に着く。ワクワクしながら見始めると、10分程度でその映画は見るに値しないと自分の中で結論づいてしまった。あと約2時間を君はどう過ごすだろうか。退出して有効活用するだろうか。それとも2000円が惜しくて退屈な映画を見続けるだろうか。

もう一つの例を挙げよう。コンコルドの誤謬(Concorde fallacy)だ。英仏協同で開発が進められた超音速旅客機コンコルドは、開発当初250機が採算のとれる最低ラインであった。しかし、収益性の低さや通常よりも長い滑走距離を必要とすることから多くのキャンセルが出てしまった。その結果20機しか生産されず、採算がとられないことが分かっているのにも関わらず、結局2000年に墜落事故が起こるまで運航は続いた。

この2つの例はどちらもサンクコスト(sunk cost)に関するエピソードである。損失がさらに膨らむことが分かり切っているのにも関わらず、そのためにかけてきたコストの方を優先し回収しようとしてしまうのである。人間には損失回避性という性質が備わっている。例えばただ50万円を貰う選択肢と、確率1/2のくじが当たれば100万円、外れれば0円というゲームに参加する選択肢があったとする。そうした時、くじが外れた時にただ50万円を貰う選択肢を選んでいれば手に入れたはずの50万円が失われることを恐れて、50万円を確実に貰う方を選択しやすいというものである。期待値はまったくおなじ50万円であるのにもかかわらず、損失が起こりうる方を恐れて、損失がない方を選択する傾向がある。さらに「ゲームに勝てば100円もらう」という条件と「ゲームに勝てば100円払う」という条件があれば、より勝とうとするインセンティブが働くのはおそらく後者であろう。私たちにとって失うことは、出来るだけ避けたいものであることは、間違いないだろう。

事前的・事後的なアプローチ

事前的なアプローチ

そもそも、そのような状況に陥らないようにすることがまずやるべきことなのかもしれない。基本的にサンクコストというのは、前払いのコストを必要とするものに発生する。そのようなものとの距離をとったり、或いはコストを払う前に十分な情報を集めて(蓋然的であっても)判断することも可能かもしれない。そうして生まれたのが数々のレビューサイト、口コミである。避けられるものは避けておくことが鉄則だろう。

ここで大切なのは、正確な情報収集と未来への見通しを含めた判断である。頭の中ではサンクコストが発生する蓋然性が高いと思っていても、自分のその時の気持ちや希望的観測に振り回されてダメだと分かり切っている選択をしてしまってはいけない。確かに希望的な観測が実現するかもしれない。すべてうまくいくかもしれない。ただ、いざサンクコストが発生した時に、鏡の前にいるのは八方塞がりの状況にいることを覚悟しなければならない。逆に、その覚悟があるのであればたとえサンクコストがあったとしても自分を肯定できるだろう。しかし、サンクコストが発生してもよいという覚悟することと、ぐっと堪えて未来を含めた判断をすることを比べると、後者の方が簡単に出来る。覚悟をするのは一見簡単に思えるかもしれないが、実際にその状況を目の当たりにしたときでさえその決断を思い出し、甘えることなく受け入れられるかどうかの保証はない。いざ絶望の淵を覗いたとき、嫌な顔しながらでも飛び込む勇気と覚悟をするのであれば、その前の別れ道で違う方を選択する方がはるかに簡単である。自己の願望を、見通しの計算に入れてはいけない。その見通しで回収不可能な損失が発生するのであれば尚更である。自分の判断で損失が発生すれば、自己嫌悪に陥る。自尊の感情はすり減らされていく。それが何よりの損失であることにも気づかず、ただあるかも分からないニンジンを求めて落とし穴にはまってもそのニンジンを追い求めようとしてはいけない。これは自衛である。自分を守るための意志ある行動である。

事後的なアプローチ

しかし、対人関係などはもはや避けようがない(そもそもコストとか言っている時点でその関係はほぼ不健全なので、この記事をもし対人関係の悩みを解消するために読んでいる方で、よほど合理的な判断しかしない自信がある方以外は、今一度その関係を精査した方がよいかもしれない)。そしてサンクコストが問題になるのはもう取り返しがつかないことが分かった時である。となると、より重要なのは事後的なアプローチであろう。

前提として、サンクコストは闘うにはあまりにも強大な相手である。精神をすり減らして、様々なものを犠牲にしながら立ち向かわなければならない。その覚悟を持って、不幸中の幸いを狙うことが最善の選択肢である。これは、いわば敗戦処理だ。本当に自分が大切にしているものを失ったりこれ以上の犠牲を出したりしないための、立派な白旗を掲げる作業なのである。

まず、悪足掻きをしよう。求めていた価値は手に入らないかもしれないが、そこに新しい価値を創出することは可能である。コストをスパッと捨てることが出来ないことは、満足するまで悪足掻きしてみる。そこから見える景色はまた違うはずである。このコストにはもちろん機会費用も含まれる。「あのときこうしていれば」が少しでも減らすためには、その時間を全力で消費するしかない。何かに没頭したり、新たな知見を得たりなど、その時間の意義や価値を積極的に得ようとしなければならない。どんなにつまらない映画にも、きっと自分を向上されるためのヒントや、面白い場面があるかもしれない、そう信じて丹念に観察するのである。

そして満足いくまで、或いはそれ以上出来なくなるまで悪足掻きをしたら、2つの点において認識のアップデートをする必要がある。

  • コストに対する再評価・再解釈

  • 自分の(現在いる)状況、位置←ゼロベース思考

コストに対する再評価・再解釈とは「それが割に合っているか」を今一度考えてみることである。もし割に合っているのなら、これ以上手に入れようと今以上にはしなくなるかもしれない。自分がかけたコストによって得られるべき価値を、自分はすでに手にしているかもしれない。そう考えることが出来れば、次に目を向けられるはずである。そして、これは未来の行動に反映させることでまったく新しい価値を付与することも可能である。そこで得た知見を活かして、自らの糧にするかどうかでサンクコストであるかどうかさえも変わるかもしれない。自らの行動範囲において、自らの意志は絶大な力を有している。意志の向く方向にあらゆる行動や記憶は解釈される。もし解釈や行動を変えたいのであれば、自らの機序に沿った確固たる意志を持つべきである。そしてそれがあらゆる観点(論理的、倫理的、審美的)において有価値な人生を歩もうとする支柱である。内部にある問題の解決を外部にゆだねることは、確かに楽になるかもしれない。しかしそれは実のところ相手の行動に対して意味のない反応をすることしか出来なくなることを許していることになる。問題を内部に持ち込むことは厳しい。ただその厳しさが、いずれその選択が価値があることの証拠に思えてくる時が来る。成功や成長の前には挫折がある。逆に言えば、挫折を体験した時に、それは成功や成長に前置されたものである。そう信じられるのであれば、きっとその挫折やコストを払うことへの抵抗はなくなるかもしれない。

もう一つ有効なのは、取り返しのつかないコストを考えることを放棄し、自らの現状や立ち位置を考えるということである。これまで出来るだけこの選択肢を避け、考え悩むことをしてしまうという前提に基づいて話してきた。しかし、考えないのであればそれに越したことはない。ただ、根本的な解決に近づくにつれてその難易度は上がる。はっきり言ってこれは本当に難しい。容易に出来るものではない。ふと、無駄にしたコストが必要になったとききっと煙のように立ち込め、前が見えなくなってしまうかもしれない。考えることを放棄することは決して気にしないように努めることではない。逃げることではない。絶望から新たな始めようとするための、惜別の儀式である。
ただ、いくら難しいとはいえ、その高いハードルを何とか下げようとすることは試みる価値がある。私も、正直特効薬を持ち合わせているわけではない。今の段階では、なんとか耐えられるだけの痛みに抑える鎮痛薬を服用し続けるだけである。特効薬を、自分自身で見つけ生み出すことも人生の大仕事だ。

さて前置きと本題はここまで、土産に鎮痛薬でも持って帰ってください。

ⅰ. 集中する

今のところ、私なりの鎮痛薬はこれにつきる。自分のしたいことでもしなければならないことでもいい。好きなことでも、嫌で仕方ないことでもいい。とりあえず、集中。集中するべきものがこれと言って見つからない人は、とりあえず筋トレか映画を見るといい。私たちはより大きい問題の前では、小さい問題を考えなくなる。自分により大きい問題を課すのである。いきなり筋繊維が破壊されたり、爆音が入ってきたらわざわざ過去の悪い記憶を思い出す余裕もない。余計なゆとりだから余裕と書くのである。余すことなく、有効活用して使い切るのだ。使いどころのない商品券と同じ。それ以上の値段のものを買って足りない分は何とか捻出するくらいが正しい時間の使い方なのである。もし、一つのことに集中できたのなら、更にいい効果が見込める。それは充実感及び達成感である。「今日、生きたな」と思えて、翌日も頑張ろうとさえ思えるかもしれない。そうした日が続けば、過去の無駄や還らないコストとおさらばできるかもしれない。

ⅱ. 視野を広く持つ

もう一つ私が有効だと思ったのが、視野を(意識的に)広く持とうとすることである。例えば今抱えている問題が、1年後の今日に悩んでいるだろうか。或いは、迷っている選択肢以外の道は本当にないのか、言い換えれば「それじゃなきゃ」本当にダメなのだろうか。一歩引いてみれば、問題の本当の大きさや全体像が分かるようになるかもしれない。問題を解決しようと近づきすぎると、問題はやたら巨大で終わりのないように見えてしまう。全体を把握するために遠くから観察する機会が肝要である。更に具体的に言えば、長期的な行動をすることをご提案したい。例えば一年後に向けたトレーニングや勉強、或いは人生全体において掲げる目標を達成することを眼差し行動するのである。そして、その非常に長く険しい道を進む中で、ふとその問題を遠くから望むと意外な解決策が見つかるかもしれない。或いは、最適と分かっていながら自らの心の弱さによって躊躇っていた選択肢を実行する準備が出来ているだろう。失ったものを取り返すことはどうしようもなくても、新しいものを創り出そう。

ここまで偉そうに講釈を垂れてしまった。しかし前述した通りサンクコストへの対処というのは非常に難しい試みだと思う。考えて考えても、特効薬は見つかっていない。いくら自分は大丈夫だと思っていても、ふとした瞬間に思い出してしまう。そういうものだ。メンタルの基礎体力が求められる。そしてその基礎体力は、堆積した決断とその結果に対する解釈に強く影響される。大切なのは、明るい未来を信じて前に進もうとすることである。希望を持つことである。

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