勝手にしやがれ
ジャン=リュック・ゴダール監督は、映画を心に置いた「ものつくり」にとって大きな壁だ。避けるのも無視するのも勝手だが、残念なことにそうするとすべてのツケは本人に回ってくる。
私にとって幸運だったのは20代前半、ADをしていたラジオ番組の制作スタッフの中に映画監督がいたこと。
その方の影響は本当に大きくて。
今でも色々目に見えないところで彼の言葉が残っていることを常々感じる。
その監督と話をしていると、知らない世界の話ばかりだった。読みたい本と観たい映画の名前がそのたびにうず高く積まれていく。かといって知りもしないことでつま先立ちするような素振りをすればすぐに窘められた。今思えばそれもまたとても有難いことであり今では消えかかっている躾でもあった。
ある時は、私がかの巨匠 鈴木 清順監督からいただいた言葉の意味を
さらに呑み込みやすく解説してくれた。
ある時は、文章を書きたい気持ちと好きなラジオの仕事に毎日追われる日々の中でだいぶ迷いと鬱屈がたまっていた自分の歩み方を教えてくれた(今も守っている)
ある日、その監督が当時、クリエイターの間で猛烈な話題となっていた作品を観てきたその足でスタジオに駆け込んできた。
映画の名前は「パルプ・フィクション」
レザボア・ドッグスで既にその筋では名前が広まっていたタランティーノが世界的に有名になる作品。
開口一番監督は仰った。
「あれはゴダールだよ」
無論、パルプ・フィクションがゴダールの模倣だとかパクリだとかリメイクだとか言っているわけではない。それだけはわかったが、いかんせんゴダールを当時まだ通っていない私にはよくわからない話だった。
パルプ・フィクションはとにもかくにも観に行った。冒頭のレストランのシーンからぶっ飛んでいて、すっかり心を奪われた。でもどこかで「ゴダールを通らないまま見てしまったうしろめたさのようなもの」もあった。
しばらくして、当時なかなか手にすることができなかったゴダールの作品をようやく観ることができた。
それが「勝手にしやがれ」
だった。
無論、沢田研二さんの歌ではない。世代だけど。いい歌だけど。曲のタイトルはこの映画からきてるんだけども。
「あれはゴダールだよ」の真意は未だにわからないんだけども。
そこに映し出されたよくわからない場面のつながり
それでも結局伝わってくる、何かに向かっているはずの何かの物語。
切なくなる登場人物たちの心の高揚。
これまで見たことのないカットのつながり
ジャンポール・ベルモンド に一瞬で心を持っていかれた。
あまりにも印象が強烈で、当時日本中、行った先々のビデオショップやLDショップで「気狂いピエロ」を探した。次に観なければならないと固く誓った作品だった。あったとしても高価で当時の私にはまったく手が出なかった。それでも探し続けた。DVDの廉価版が出る未来なんか知らないから足を棒にして秋葉原も新宿も中野や吉祥寺など、中央線沿線の店を歩き回った。
この二作品は全く別格の作品になった。世の中や専門的な言いたがりが何を言うかは知らない。今でも自分の記憶の中でギラギラと輝く作品だ。
ベルモンドが88歳で逝ってしまった。
充分に自らの命を燃やし尽くして静かに旅立った。
ゴダールを知り始めたあの頃、僕は嫌な奴だったけど楽しかった。
普通の連中が嫌いで嫌いで仕方が無かったけど
一生懸命背伸びをしては窘められる日々が楽しかった。
未だ命を燃やし尽くせそうにない自分が一番普通だったんだなーと思うけれども、そんなこととはまるっきり関係なく僕はまたあの二作品を観ることだろう。
お疲れさまでした。
青く輝く時間をありがとう。
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