スキー場エンデューロの草分け的存在、ブランシュたかやま

みんな忘れてるだろうけど、昔は今みたいに頻繁にスキー場を走るなんてできなかった。いや、そもそもスキー場でレースなんかできなかった。


という記事を先週予定してた(変更して朽木8時間耐久に入れ替えた)ので、加護坊爺さんから下のリプを送られたときは焦ったぜ(笑)。もしかして俺の記事見えてました?

(この方は下記のレーススタッフをなさっていたそうで、俺も昔お世話になってます。その節はありがとうございました。時空を超えて繋がるSNS。笑)



(さて、仕切り直し)


みんな忘れてるだろうけど、昔は今みたいに頻繁にスキー場を走るなんてできなかった。いや、そもそもスキー場でレースなんかできなかった。

なぜならスキーは人気のスポーツで、バイクレースにリソースを割く理由がなかったから。

画像1

(グラフは下記サイトからいただきました)


そんななか、ガルルカップはときどきスキー場を会場にしてエンデューロやってたな。

大町とか爺ガ岳とか津南とかさのさかとか。(この「さのさか」が加護坊爺さんの仰るガルルカップ白馬です。)


長野県は当時から関東・関西両方のライダーが集まる場所だった。アクセスは今ほど良くなかったが、どちらからも同じくらいの便だったから。主催がウィズランド(関西)だった大会もあった記憶。

(上記の中で、津南は新潟県)


ああ、宮城県の七ヶ宿スキー場でやるJAJA-CUPもあった。

JAJAはガルルじゃなくて、メーカー系。

まあ、それを言うならレイドカムロは、毎年スキー場をコースの一部にしていたっけ。


・・・・と振り返ると、今スキー場エンデューロが隆盛なのは、こういう積み重ねの結果と言えるかもしれんね?

サンドバレー吉野というレース実績があったから実現したであろう、現役砂取り場での八犬伝みたいなものか?

そう思うと、今あるレースの形が数十年後にどう影響していくのか、興味が湧くね。エルズから派生した日本における採石場レースがこの先どう広まるか?とか。

ああ、そういえば昔、コマツ(建設機械)のテストコースでレースしてたこともあるし、未完成のゴルフ場が常設コースになってたこともあった。パワーエンデューロはそこで開催してたこともあったよ。

最近のゴルフ人気が低迷していることを思うと、この先 廃ゴルフ場でED開催て展望もあったりするんだろうか?

画像2

(上記グラフは下記サイトからいただきました)


そう考えると、この先もコースの変遷はいろいろありそうだな。まあその頃には、俺はもう あの世だろうがw


さて。

タイトルに書いたブランシュたかやまは、スキーブーム真っただ中の10年間、1991年~2000年に長野県で開催されたレースだ。主催はモトワールド。日程は2days。

ブランシュたかやまは、年に一度の特別なイベントという感じだった。土曜日に3時間レース、日曜日に4時間レース。クラス分けはあるが、混走の1本勝負。


(参考までに、会場だったスキー場サイトを掲載)

ブランシュたかやまスキーリゾート(長野県長和町)

ちな、ブランシュたかやまのたかやまは鷹山。岐阜県高山市と混同しないために漢字も併記しておく。

そういえば長和町には長和の森という良コースもあったね。マキシスカップ、JEC、キャンオフなど開催レースも多々あった。残念ながらここは、近隣住民の反対で2018年に閉鎖されている。


検索してみたら、なんとサイトが残ってたよ。

(HOMEをクリックするとハイブリットCUPのバナーがあった。どうやら前田篤さんのサイトみたいだ。)


主催の丸山さんは残念ながらお亡くなりになっている。大会がなくなったのはそれより前なので、サバ広みたいな理由でなくなったわけではない。

(サバイバルin広島は主催亡きあと一度だけ開催されたが、そのあと再開されていない。ただ、地域的にはブラックバレーが穴を埋めてくれた感がある。ブラックバレーはコースレイアウトが絶妙で人気。あの技を継承してくれる若手スタッフの充実が望まれる。頼むぞ、広島の若者よ!)


下記サイトは、まさに「ガルルの打田さん」のもの。その打田さんも今は亡き人になっている。


たかやまがスキー場利用人口がピークの頃に開催できた理由はなんだったのか?そして、どうしてなくなってしまったのか?については後で書く。

とにもかくにも、滅多に走れないスキー場だ。大会には大勢のライダーが集まった。

当時、100台も集まれば「今日は参加者が多いね」という感覚だった。それに対してスキー場レースは2~3倍くらい集まる。走行時間が長いので組んで走る人も多く、ライダー数は300~500人になることもあった。そりゃもう、気分はお祭り、いつもよりわくわくしたよ。(笑)

今のライダーには、その状態は「日常」だね。JNCCやWEXを追いかけるだけで、いくらでもスキー場を走れるし、300人や400人なんて数字、見慣れてるだろ?

だからだろうか、オフロードを始めてからの上達が、今のライダーのほうが圧倒的に早い気がするよ。

今は本当に環境に恵まれてるね。日常的に長いヒルクライムやブッシュ区間を走れるというだけでなく、週休2日とか、マシンの進歩とか、走る条件が揃ってる(コスト高だけど。)


社会インフラが整っているのもそうだな。

昔は都市部から会場まで行くのに高速道路が繋がっていないエリアも多くて、往復だけでえらく消耗したもんだ。今はたいていの場所に楽にアクセスできる。当たり前のように思ってるかもしれんが、これはものすごいことだ。通行料の高さには辟易するが、でも高速道があるから今の遠征が支えられてる。


あの頃は、JNCCの前身のハリケーンエンデューロでも、MXコース+ブッシュエリアというコースがデフォルト。今ほどのアップダウンは望めなかった。

そういう時代に開催されたブランシュたかやまは、かなりダイナミックな部類に入った。スタートしてほどなくの、山頂まで一気に登るゲレンデヒルクライムは、あの当時ならそうそう味わえなかったコースだ。

レイドカムロもゲレンデヒルクライムはあったが、あそこは水切りに細工して走りやすくしていた(丸太が入ってたりした)。それに、ラリーレイドなのでそう何回もゲレンデを走るわけじゃない。走る場所も、林道、お山、河原に町の中など、バリエーションが多かった。

(ジャンルが違う競技だからね。それはそれでよかったけども。)


一方、ブランシュはスキー場全体を何周も回る。ゲレンデもそのまま爆走できたし、けっこうワイドな水切りを、手つかずのまま跳ばされた。

いやなら舐めればいいくらいワイドだった。そして初心者がよく嵌っていた。でも、嵌ってる脇をマージン取って跳んでいけるくらい、幅も広くて走りやすいコースだった。

それと、作業道がこれまたかなりのハイスピードだった。だからレースが進むにつれ、参加者のブレーキング痕のウォッシュボードができていった。ドライなのに、レース中にどんどんコンディションが変わっていく。そういうコースだった。

(当時はジャパンスーパークロスもまだまだ人気だったので、大きなブレーキ痕の連続を走りながら、デーモン・ブラッドショーやマイク・ラロッコのウォッシュボードをイメージしてたよ。もちろん気分だけだがなw)

まあ、「台数の多いレースに俺たちライダーが慣れていなかった」というのもある。とにかくコースの荒れはひどかった。走ってるぶんにはその変化が楽しかったが。(でも補修はとても大変だったろう。)


余談だが、コースを荒らさない最大の方法は参加台数を制限することだよ。これはいろんな大会に出てきた経験から言ってる。なにもかもマンモス化した今、難しい話だが。

理想は、(ワンコインで参加できる練習会みたいな)小さな大会が毎週各地で開催され、年に数回だけ、どこかで大きな大会がある感じかね?と夢想している。

それが実現すれば(今ほどの補修の心配をせずに)環境保全とライダー育成を実現できるのにな、と。

ただ、それはバイクショップが機能していた昔のやり方であって、レース運営が事業になった今、主催(事業主)の継続を考えると無理な相談だ。

今のマンモス化な流れだと、今後もエントリーフィーは膨張していくだろう。それだって主催はカツカツだったりする。だから責めてるんじゃないんだ、なかなかきつい時代になったなという嘆きだ。

正直、俺も出場数を減らしてるよ。この流れにどこまで付き合えるか不安ではある。

すまんな。今の時代、おっさんだからって余裕がある人は多くないよ。若者にあれこれ提供したい気持ちだけはあるんだが。


暗い話題になっちまった。やめやめ!

さて。

ブランシュたかやまは大きな大会だったので、ゲストライダーも来ていた。当時「エンデューロの神様」と呼ばれた石井正美さんもみえた。ウイリー松浦さんの年もあったし、三橋淳さんの年もあったと記憶。かと思えば一般参加に唐沢栄三郎さんがいたり、長谷見昌弘さんがいたり。まあ、そういうすごい大会だったんだ。

人気もあって、ハクもある大会。そんなイベントでも、いつかはなくなってしまうんだ。(「出たい大会があるなら多少無理してでも出とけ」と俺が言うのは、そういうのを見てきたから。)


では、どうしてブランシュたかやまはスキー人気の絶頂期に会場を借りれたのか?そして、どうしてなくなってしまったのか?

これについて書こう。

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