夏カムロ、冬カムロ

みんな忘れてるだろうけど、前に

てのを書いた。

あのイベントは主催とライダーの交流が濃かったから、古参の参加者は主催裏話なんかもイロイロ教えてもらった。田舎でイベントを立ち上げるご苦労なんかもアレコレ聞いた。

初期のカムロ参加者は、せいぜい100台足らずだったんでね。後期の750台なんてお祭り騒ぎ時代からは想像もつかない密度のコミュニケーションが取れたよ。
俺が数ばかり求めるイベントを好まんのは、この時の経験があるからだ。


まあ、大人数でも工夫次第で何とかなったり。
今ならネットでフォローできたり。
てな可能性はあるけどな。


それはそうと。

600台、700台になってもカムロに通ってしまった身としては、イベントが終わった時の喪失感はすごかった。
だからツール・ド・カムロが始まると聞いた時は嬉しかったものだ。しかも小規模でやると聞いたので、本当の、昔のレイドカムロが戻ってくる!と思ったからだ。



ツール・ド・カムロをレポートしてくれてる方のブログ。





おお、このブログは「Raid KAMURO (レイドカムロ)実行委員会からのお知らせ」の話に触れてるな。あのころちょいと物議を醸したんだよ、アレ。

おっしゃる通り、サイトだけ見ると大人げない感じもあったが、でもあれ、対外的に必要なサイトだったんだと思うよ。


レイドカムロはメインのゴールドウィン(GW)をはじめ数々のスポンサーを持っていて、電通も一枚噛んでたビッグイベントだった。毎年スポンサー枠でGWの人も走ってたし、地元新聞やTVも毎回来てた。

参加賞にもらったTシャツには、当時のスポンサーロゴがずらっと並んでるんで、持ってる人はわかるだろ?




写真は下記ブログからいただきました。88年はまだスポンサーさんも少なめでおとなしいデザインだったね。95~97年あたりのはもう少しズラズラ書かれてた記憶。(写真は見つけられず。)


そういう各方面に挨拶無しに始めちまうと、「あのとき世話したのに一言もナシかよ?」とクレームが来てもおかしくない状況だったんだと推察する。


まあ、書き方がチョイとアレだったんで、内情を知らんと外野は騒ぐわな。何でもそうだけど、こういうのは外野がコトを大きくしがち。

ご本人たちは普通に日常生活を送ってたと聞いてるがね。なにせ、みなさんご近所ですから。

リンク先は消えてるので、ここで俺が蒸し返すこともない。そんなん、野暮なことよ(笑)



ツール・ド・カムロは、レイドカムロ時代のスタッフが再集結した。

と言いたいところだが実際はチョット違ってて、当時の中心人物は基本いなかった。

そもそも言い出しっぺはレイドカムロ時代に中学生だった世代。彼らが大きくなって自らもバイクに乗るようになって、そしてこう思った。

「あれをまたやりたいな?」


レイドカムロがなくなった理由は、冒頭で紹介した「みんなレイドカムロが教えてくれた」に書いた通り。なので、再開するにしても自然とこじんまりになる。

それでもスタート台は金山杉できっちり作ったし、昔のルートもだいぶ再現されていた。(カムロのコースは毎年変わったが、最終的にはカムロスキー場まわりの周回コースがベースになってた。)

以前はなかったお遊び要素(途中に荷物運びのセクションを入れ込むなど)はご愛敬。というか、「ホンキのレースじゃないですよ」を浸透させるためだろう。タブン。


ツール・ド・カムロはのちに「夏カムロ」と呼ばれるようになる。

それは新カムロ主催者(ツール・ド・カムロ立ち上げ時は20代半ば)が冬のスキー場でもイベントを始めたからだ。こちらを「冬カムロ」と呼び、あちらは「夏カムロ」で定着した。

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