木古内とヒダカの違い。オンタイムの本質とは?そして、選手権の意義

みんな忘れてるだろうけど、その昔STDEというイベントがあった。Survival Two Days Enduro(in木古内)で、STDE.

ヒダカがHTDE Hidaka Two Days Enduro と表記されるのと同じだね。

ちなみにヒダカは、ITDE International Two Days Enduro(1984年に第1回を苫小牧で開催)の流れで生まれている。だからあれがオンタイムになるのは、必然だったんだろうな。

(ヒダカも始まった直後はオンタイムじゃなく、主催がISDE観戦に行き、その後オンタイムへ移行してる。)

(そこらへんの話は何度も紹介してるんで、ここでは書かない。上の拾い画像を説明した記事だけ、一つ置いとくわ。)


ところで。
前にも書いたが、北海道にはたくさんのオープンエンデューロがあった。

上の記事にも書いたが、当時北海道3大エンデューロと言われていたのが、

スピードの当麻、ヤチのナカトン、オンタイムのヒダカ。

     (この頃の木古内はスピード系ではなかったんだよ)

今のJNCCでトップを席捲しているのはMXIAたちだが、オープンエンデューロ全盛のあの頃(1985~1995年頃)も、元MXIAが勝ちを攫うことが多かった。
(1995年以降は余韻だと俺は思ってる。実際、ほとんどのオープンエンデューロは95年以降、次々と消えていった。理由はそれぞれだがね。)


さすがに当時の現役世代はアマチュアレースのEDなんか相手にしないので、一線を退いたおじさん世代が参加していた。
だが、MX引退おじさんも十二分に速い。そういうエリート層がパンピーレースに来て総ざらいしてくのは、今も昔も変わらんね。


そうそう。
最近オープンエンデューロという表現をする人が減ったが、公道を使用するレースのことを、コース使用のレース(=クローズド)に対して、当時そう呼んだ。

ただし、西日本では広大な場所で行うクロカンもオープンエンデューロと呼んでいて、ちまちましたMXコース系じゃないレース、というニュアンスで使った。ここらは言葉の全国統一がされていないままだ。

オープンエンデューロ、あるいはオープンレースとかオープン形式、なんて表現が廃れたのは、共通概念を作れなかったからかもしれんね。


オープンレース(公道レース)でまとめて語られがちだが、ヒダカと木古内には大きな違いがある。それは、

オンタイムか否か。
そして、公道を使うか否か。(え?)






木古内は(レースは事実上)クローズドだったので、オンタイムにこだわる必要がなかったんだと思う。
だから今言われている「クローズドでオンタイムをやる日本方式」というのは、ソレ、ナンノタメニおんたいむニスルノ?と聞きたくなるくらい妙な提案なんだよ。木古内方式(クローズド)でやるなら、わざわざオンタイムにしなくていいんだ。そのほうが手間もかからんし。

ただし、木古内のレギュレーションはナンバー付きバイクが条件で、パレード以外じゃ公道を走らないくせに、車検もひときわ厳しかった。
ここらへんはルールの形骸化を感じる。これは俺の勝手な想像だが、スタッフにはオープンレースに対する憧憬があったんじゃないかね?


では、木古内のレース形式とはどういうものだったか。

レース日程は2日間だが、金曜に受付と車検があり、前夜祭も催された。これは当時の北海道オープンエンデューロのデフォ。

で、レース日程は2日とも「規定時間内に規定周回数をクリア」するのが条件。タイム計測は全周回で行われる。

1日目に規定周回をクリアできないと2日目に進めないので、1日目は実質、予選。そして2日目は前日と逆回りのコースレイアウトになるなど、日々変化を楽しめた。

最初の周は受付ゼッケン順に、数人ずつ(たいてい4人。たまに欠場などの都合で2,3人とか)スタート。
2周目からは自分のペースでスタートして構わない(ピット滞在時間は指定されるが、最初に一緒にスタートしたライダーを待つ必要はない)。

だから木古内経験者は「オンタイムじゃない」と記憶を語る。

とはいえ、崖落ちもあるハイスピード林道やたっぷりの川渡り、「押しがうまかった何某が優勝」と言われた年もあった難所込みのコース設定なんで、「規定時間に規定周回」は簡単ではない。
それなりの数のライダーがこぼれていき、2日目の出走者は減る。マシンを壊したり、車検のペナルティなんかもあるしね。

そうそう、オンタイムじゃなかったとはいえ、パルクフェルメはあったのよ。
なので、壊してもラリーみたいに「一晩かけて直す」とかできなかった。今のJECみたいに、パルクフェルメに入れる前と、翌朝のワークタイムしか、メンテや修理に充てられなかったんだ。

で、2日目は、生き残ったライダーだけが、今度は「前日の成績順」でスタートする。1周目はやっぱり4台ずつ。そのあとは前日同様、自分のペースでコースインしていく。


そんなわけで。
「レース中は誰が勝ってるかわかりにくい」のは、今のJEC同様だった。
ほれ、よく「オンタイムはわかんねえ。ヨーイドン!じゃないとレース見てる気がしねえ」と言われてるじゃない?木古内はまさにその状態だったよ。1日目は特にね。


そして、口蹄疫の流行と東日本大震災。これが大きな引き金となって中止や参加者減が続き、STDEは幕を引かれた。

ま、そもそも不景気で、ポイントも付かないレースに遠征するライダーが減り、残ったのはコアな木古内ファンだけだった・・・・てのが真相だと思う。現地へ行くと「見た顔」ばかりだったからね。新規参入がなけりゃイベントなんかどんどん人が減るさ。


口蹄疫流行は2010年

東日本大震災は2011年

最後の木古内は2012年開催

タイスケ氏、惜しかったね。一度だけ木古内を走るチャンスは残ってたんだが、もしかして他のレースと被ってて諦めた可能性もありそう。

あと、高速かっ飛ばし林道は間違いないんだけど、それは2008年以降の話。上にも書いたように、木古内はもともと、EDで初めて「押し」がテクニックと評価されたくらい、ハード系のレースだった。

それはnagase氏のブログを見てもわかる。

(下記ブログより引用)
2008年のコースは、近年環境保護の機運が高まってきたせいか、木古内名物だった林間のサバイバルセクションなどが使用できなくなり、林道中心の高速コースとなっているようです。主催者発表では約38kmとさらに短くなっています。
(引用おわり。ゴチック文字も原文ママ)


今でも忘れない、雨の杉林の九十九折れヒルクライム。チュルチュルで上がらない坂はとてもバイクが乗れたものではなく、皆で掘っちまった轍はどんどん深くなった。そして、最終的には押し合戦。

それを制したのは函館の五十嵐選手。

氏はレース後のインタビューで、
「木古内のために押しの練習をしてきました。おかげで今日勝てました」
と答えた。
押しの練習というパワーワードに、俺たちはどよめいた。
今の人なら「ウンウン、押しは大事」とか言いそうだが、あの頃は押す練習なんて考えた人、聞いたこともなかったんよ。少なくとも俺の周辺ではな。

ま、そんなふうに木古内はハードな大会だったのよ。HEDという概念も言葉も、未だなかったけどね。
あと川渡りの多さは龍神月山(山形)に負けずとも劣らずで、コースバリエーションが豊富だった。


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