60代ASD、初の海外(トルコ)に挑む(16)トロイア2
トロイア遺跡
博物館からまっすぐ道を進んだ先にトロイア遺跡がある。
トロイアは紀元前3000年頃から紀元前12世紀ごろとされる「トロイア戦争」を経てローマ時代に至るまで、ずっと破壊されては再建されてきた都市だ。
ここには美しい円柱もなく神殿もない。ただただ、頑丈な城壁のみが残っている。
鋸歯状垂直オフセット
この舌を噛みそうな言葉は、このトロイア遺跡の城壁の特徴で、映画「トロイ」でも描かれている。これはギリシャのミケーネ文明の技術で、紀元前18世紀から13,4世紀の都市建設技術には地元のものとともにギリシャ由来のものが採用されていたということがわかる。
ギリシャ神話では、ゼウスに反逆を企てた海神ポセイドンと光明神アポロンが、罰としてトロイアの城壁を築いたとされている。ギリシャ由来の建築技術がそんな神話の元になったのかもしれない。
道広きトロイエ
「イリアス」(お気づきだろうが、「イリアス」という叙事詩のタイトルはトロイの別名「イリオス」からきている。)にはトロイアの形容詞として「道広き」が使われている。(「トロイエ」は「トロイア」のイオニア方言で、「イリアス」ではこのように呼ばれる)
海上交易の要でもあったトロイアは、同時に陸運も発達しただろう。トロイア戦争よりずっと前の第2層からは、すでに幅広い舗装路が見つかっている。「トロイの木馬」もこういう道を引かれていったのかもしれない。
トロイアの風
頂上付近には神々に犠牲をささげるための祭壇と思われる遺跡があった。時代的にはトロイア戦争とはずれるかもしれないが、牛や山羊を捧げ、その脂身を焼いた煙が天井の神々に届き、自分たちも(献酒の後で)その肉と酒を心ゆくまで楽しむ描写は、「イリアス」に頻出する。祈るために肉を食べない、などという考え方はかけらもない。
そして、この遺跡の高みから見えるのは、一面の海でも砂浜でもなく、豊かに広がる平原なのだった。
トロイアを潤す2本の川は、この難攻不落の城市に豊かな糧食を供給したが、やがてそれらは海を埋め、港湾都市だったトロイアには、ただ風だけが今も木々を揺らしている。
ところで、「風繁きトロイア」という形容詞(和訳)はどこに由来するものかはっきりしない。私が昔読んだ呉茂一訳かと思っていたが確認できなかった。松平訳では「風強き」となっている。
言葉としての「風繁きトロイア」は私の心にのみ存在するのかもしれないが、この地を踏んだ私は、もうそれで十分なように思う。