見出し画像

見栄を張る

序章:「おいTakuya!!これを見ろよ!!」

 20年近い付き合いのある友人から突然、スマホの画面を見せられた。そこには60万・80万・100万・200万と書かれた数字が記載されていた。これは何の数字だと聞いたところ、副業の広告収入で得た売上だと言っていた。しかしそれは売上であって、そこから広告収入の原価を差引いた残りの粗利は数十万といったところだそうだ。

 その友人は、以前から会社からの給料だけではやっていけないから副業を始めて少しでも収入を増やしたいと言っていた。昨年の前半から寝る間も惜しんで広告ビジネスの構築に取り組んでいたのは知っていた。そして秋頃から収益がプラスになり始めて上記のような利益を得られるようになったそうだ。

 しかし、広告収入で利益を得るようになった昨年の秋頃からその友人に何か違和感を覚えるようになった。10万円以上もする靴やコートを着るようになったり、彼女と同棲する為に月10万以上もするマンションに住み始めたり、急に羽振りよくご飯や高いエステを奢ったり他にも上げればキリがないが、今までとは別人と言っていい程様子が変わってしまった。しかも、何十万と利益が手元に入っているはずなのにリボ払いやキャッシングの支払いで収支はマイナス、原価等経費の支払いと利益の入金には1カ月のズレがあるらしく、支払いが出来なくなりそうになり親から何十万ものお金を借りた月もあったそうだ。

 僕はこの友人に対して今までにない恐ろしさを感じるようになった。高卒の学歴に対してずっと劣等感を抱いていた中で入社した会社では役職を持ち、僕よりもはるかに多い給料を貰っているにも関わらず、将来のことを考えたら自らの力で稼ぐ術を身に付けなければならないと寝る間を惜しんで副業の為のシステム構築をしていた友人に対して尊敬の念すら抱いていた。しかし、今の彼を見ていると副業による収入が入った途端、財布の中の札束を見せびらかし、副業から得た売上を自慢して身の丈に合わない散財をするようになった。それでもその収入の範囲内で散財する分にはいいが、毎月の収支がマイナスの時が多く、その顔には焦りすらも感じ取れる。時々つぶやくように、広告収入はいつまでも安定して入るわけではないから将来が不安だよと言う。20年近い付き合いがある中で今の彼を見ていると異常とすら感じられる。

 なぜ彼はここまで変わってしまい、何がこの友人をこうまで変えてしまったのか。こうなる前に自制することは出来なかったのか。僕はこの謎を解くに当り、あることが頭をよぎった。それは「見栄」だ。

第一章:「見栄はどこから来るのか?」

 見栄は一体どこから来るのか?僕はこのことを考える上でまずベースとなっていることは何だろうと考えた。それは、人間が本質的に持つ「欲望」が深く関わっているのではないか。人類が誕生してから現在に至るまで人間社会がここまで便利に豊かに発展してきたのは、「こんな物があればなぁ。こんな事が出来ればなぁ」といった欲望が原動力になって発展してきた。私達の生活をより豊かにより便利にしたいという欲望、それこそ人間が成長する上で一番大切なことなのである。しかし、欲望は進歩の原動力になる反面、見栄となってその人の思考・行動に現れる。

 見栄とは、今現在の自分を実際以上によく見せようとする態度のことである。世の中僕自身も含め、殆どの人が見栄を張っているのではないかと思える程見栄で溢れている。先日、僕は銀座に行く用があった。銀座周辺には人間の欲望を刺激する高級ブランド店や飲食店が立ち並び、助手席に綺麗な女性を乗せた高級車も沢山走っていた。こういった場所で買い物をしたり高級車を走らせたりすることは見栄を張る事と変わらない。僕自身最近新車を購入して自撮り写真をSNSに上げたり、大したことはないが銀座で10万もする財布を購入したりした。これらも見栄を張る事と変わらない。別に見栄を張る事が悪いと言っている訳ではない。それで周りからドン引きされようが嫌われようが周りに迷惑を掛けなければいいだけの話である。

 資本主義社会で生きる我々にとって、世の中欲望を駆り立てるもので溢れかえっている。その欲望を刺激することでビジネスが成り立ち、我々の生活は豊かになった。しかし、その欲望も悪い方に行き過ぎると、自分の手の届かないところに背伸びして手を伸ばそうとする。そうすると下駄を履かせなくてはならなくなり、その下駄が見栄となって現れ現在の自分とのズレが生じてくる。

第二章:「人間は見栄を張り続けると後戻り出来なくなる⁈」

 あの人みたいになりたい。あの人みたいに勝ちたい。あの人みたいにお金持ちになりたい。あの人みたいにいい車に乗りたい。あの人みたいにいい家に住みたい。あの人みたいに美味しい物を食べたい。あの人みたいに可愛く・かっこよくなりたい。あの人みたいにブランド品を身に付けたい。あの人みたいにあの人みたいにあの人みたいに……

 こんな風に欲望の赴くままに求め続けるとどうなるか。例えばあの人みたいにあのブランドの財布が欲しいと思い買ってしまう。今度はあの人みたいにいい家に住みたいと思うようになり自分の収入に見合わない家を契約してしまう。今度は車もローンで買ってしまう。これらは見栄を張る事であり、自分をよく見せようと見栄を張り続けると、まるで底なし沼のような地獄に落ちている感覚に見舞われる。そして、このような見栄を張り続けるとどうなるか。後戻り出来なくなるのである。

 人間誰しも無意識・有意識に関わらず見栄を張った経験はあるはず。見栄を張ってしまうことは悪い事ではない。それは人間誰しもが持つ本能であり自然なことだからだ。しかし、ここまで激しくなった自分の見栄を周りの人に対して張り続けると、人間の心理として止めることが怖くなる。例えば、見栄を張って高い家賃の家を借りてしまったとする。もちろん周りの人からは「羨ましいなぁ~。いいなぁ~」と言われ気持ちよくなる。しかし、様々な事情で払い続けることが困難になってしまった場合、今度は先程とは打って変わって逆に周りの人から「所詮見栄を張っていただけかよ!!」と言われ、そのような目でみられてしまう。周りの目を気にして怖くなってしまい、後戻り出来なくなってしまう。ここが怖いのである。

 欲望は、進歩発展の原動力になるが、一歩間違えると自らの身を滅ぼしかねない見栄に繋がっていく。僕自身、このような危ない欲望や見栄と隣り合わせだ。「あの人に自慢したい・あの人よりいい物を得たい・皆に見てもらうことによって承認欲求を満たしたい・あの人より上に行きたい」。人間当たり前に持つこのような欲望から生ずる見栄とどのように向き合うべきなのか。次は、僕自身の考えを見て行きたいと思う。

第三章:「見栄とどう付き合うべきか」
 人間自身誰もが持つこの「見栄」とどのように付き合うべきか。

 僕の考えでは見栄は欲望から始まり、それが行き過ぎると見栄になってしまう。では、欲望を抑え込めば見栄を張らなくて済むのか。そうではない。欲望は決して抑えてはならない。なぜなら前にも述べたが、欲望は進歩発展の原動力になり、人間は欲望が無くなった瞬間に進歩が止まるからだ。では、どうすればいいのか。それは、他人に対して「優越感」や「劣等感」を持たなければいい。「言うは易く行うは難し」。言葉の通り口で言うのは簡単だが、実際にそのような感情をもたないで生活することは難しい。なぜなら、優越感や劣等感は共に人間が本能的に持つ感情だからだ。人間はなんと実に面倒な生き物なのだとつくづく思う。

 私はあの人より優れている、私はあの人より劣っている。このような気持ちがあるから人に対して誇示するように見栄を張るようになるのではないか。自分が勝手に感じている欠点を穴埋めする為に自分をよく見せようと見栄を張る。本当にくだらない。相手がどう思うと何を言おうが、自分は唯一無二の存在なのである。だから、見栄を張ることは悪い事ではないが、優越感や劣等感から来る見栄は決して張るべきではないのだ。

 僕自身の人生を振り返ると、無意識・有意識に関わらずたくさん見栄を張って来たかもしれない。僕は最近新車を購入した。それは何年も前から欲しくて欲しくて堪らなかった最新のハイブリッド車をようやく全額キャッシュで購入する事が出来た。ガソリン高で燃費のいい車に乗り換えないとガソリン代だけで月に何万もかかってしまうからというのが理由で、事実前のガソリン車より燃費が良く、ガソリン代の節約が出来ている。しかし、本当にそのことが買い換えた理由だったのか。もちろん買い換えたことにより、以前にもましてガソリン代を節約する事が出来、静かなエンジンと広い室内空間により快適な運転をする事が出来ている。だが、これは表向きの理由で、僕の本当の気持ちは「見栄」だったのではないか。そんなに高い車ではないが、職場の駐車場に入って車を駐めた時の優越感、同僚の車が並んでいる横に自分の車を駐めて自己満足する自分、車の写真を撮ってSNSに投稿して自己満足している自分、今まで僕の事をバカにして来た人に対して見返している気持ちになっている自分。このような気持ちが僕自身見栄になっていたのかもしれない。

 見栄とどう付き合うべきか。それは、人間の心の中にある「歪んだ心」との闘いである。その心に打ち勝つことが、見栄と上手く付き合う上で大切だと思う。

                                     Takuya

いいなと思ったら応援しよう!