私のテキトー受験記と懺悔
友人たちの子どももずいぶん大きくなって、受験やら進学やら親は気を揉むばかりで大変よねー、と他人事だから遠い目で眺めていた。
先日、受験生を抱えるうちのスタッフと話をしていた時、なんとなく自分の話をしたら「えーっ!ありえん!それ結構ひどいですよね!!」と言われて、そうかと思った。
笑い話のつもりだったけど、彼女の言うように親目線で見たら確かにひどいな。いやいや、そう考えるとうちの両親ってずいぶん心が広かったんだなと今さらながら感じ入る。
浪人がデフォルトだった高校生活
子ども時代の私はホントにええ加減だった。必死に勉強したなんて記憶はトンとない。まあ、浪人した1年間はまあまあ勉強したかな。でも正直今の方がよっぽど勉強してると思う。
大学は浪人して行くもんだと思っていた。高校3年間は思いっきり楽しみ、受験勉強は予備校でするもんかと(ナニーッ!と怒られそう・・・)兄貴も浪人したし周囲もそんな雰囲気だった。
それで高3の受験勉強は全く身が入らず、滑り止めの私立も受けずに国立一本であえなく玉砕。私の時代は「共通一次」と言って、国公立は1校しか受けられなかった。それにしても、高3の夏休みにバンドにのめり込んでコンサートまで開く始末だから、それ相応の結果かと。
当然のように予備校へ。ここではさすがにまあまあ勉強した。クラスは成績順で決まり順位が落ちると即クラス替え。成績表は貼り出されて誰がどのくらいか一目瞭然。在校生は2千人くらいいたかなぁ。
夜は9時まで予備校で勉強して家に帰るという生活。と言いながら、夜の勉強時間はしょっちゅう抜け出して遊びに行ってたけど(コラーッ!)。通っていた予備校は出欠に厳しいと有名なところで、出入りの際には必ずタイムカードを打刻することになっていた。そこを見張ってるおじちゃんがいるんだけど、仲良しになってよく見逃してもらってたw
そんなこんなだけど、さすがにまあまあ勉強したおかげで共通一次の点数は昨年よりも150点アップ♪(前がひどすぎただけ)
さて、目標の大学(県外)を受けるかと思うけど、楽々というほどでもないのでどうしようかと悩んでいた時、両親からこう提案された。
合格に太鼓判を押されて気が緩みまたまた玉砕
もう二浪はできないんだからランクを下げて確実なところにしてくれと。そして家から通えるところにしてはどうかと。ちなみにその時我が家は父の転勤で引っ越しが決まっていて、その家から通える女子大があった。
えーーっ女子大かよ(当時の私は女子が苦手だったw)、と思ったけど、確かにもうこれ以上浪人はしたくない。先生に相談すると「そこなら太鼓判を押す」と言われてその気になった。そもそも何が何でも行きたい学部があるわけでもなく、その女子大にある学部でもまあいいかというテキトーさ。
こうなると、私の怠けグセがむくむくと頭をもたげてきた。もう太鼓判だもんね。滑り止めの私立も要らないんじゃ?でも、京都の大学は友人たちと一緒に受けに行くことにしてるから、とりあえず受けとくか(バカヤロー!)。長崎のあそこは、、、受験料払ったけど行くのめんどくさいからもういいかな(あほか!)
遊び半分で行った京都の大学は、、、滑り止めだったのに落ちた。ま、行くつもりもなかったしね、なんてお気楽な私。もうひとつ受けていた地元の滑り止め私立も落ちて(文系に必須の英語が苦手)、本命の女子大も、、、太鼓判にも関わらず落ちたという、なんてこった。
家族会議の中父親が出した驚きの提案
どうする私。もう家族会議よ。しかも、引っ越し先の家探しのためにその日は兄貴も帰ってきていて、家族全員で合格発表を見に行ったのに、どんより空気。あぁぁ気まずい。
やけっぱちの私はもう浪人したくないと、これから受けられる短大を探して受けるとか、専門学校を探すとか、まったく一貫性がないボンクラ娘。
そんな家族会議の中で、父親が私をこう諭した。
「二浪していいから4年大に行け。まあ、お前が大学に行ってちゃんと勉強するとは思ってないが、人生の中のモラトリアムを謳歌しろ。そんな時間は人生の中で二度とないから。長い人生、2年のブランクなんて大したことはないから」と。
今考えると、なんとありがたい親だと心から思う。しかもあの時代、女子は短大に行く方が圧倒的に多かったのに、だ。
でも、この時私は「えー、女子の二浪はカッコ悪いなー」などと考えていたから、まったく!もう!だ。
結局私は、二浪せずに4年大に進学することができた。それは、たまたま余っていた内申書があったので「とりあえず送るだけだから」と願書を出していた大学の二次募集に受かったのだ。(どこまでもテキトーでごめんなさい)
「男とか女とか関係なく生きろ」という昭和ヒトケタの父の教え
今になって知るんだけど、当時の4大進学率は女性のわずか14%(今は50%)。女子は高卒もしくは短大に行ってサッサと婿を見つけて嫁入りしろ、という風潮の時代だった。だからあの時「男とか女とか関係なく生きろ」とそう言われていたのだと思うと、本当にありがたいと思う。父に確認したことはなかったけど、もしかすると、職場の女性たちに対する差別に心を痛めていたのかな、とも思う。
進学した私は、父親の言葉通り大した勉強はしなかったけれど、その代わり、学生の時にしかできなかっただろう経験はたくさんさせてもらった。ひとつのことを深く追求すること、人とのコミュニケーションや組織運営に苦しんだこと、恋愛、サークル、独り暮らしなどなど、4年もの時間があったからこそ、社会に出る前にたくさんの経験を積ませてもらった。勉強よりも大切なその時間を、親に買ってもらっていたのだと思うと、本当に感謝してもしきれない。
そして、世の中のお父さん、お母さん、私のようなボンクラ娘でも、こうやって何とか生きていけているので、どうかご自身の子どもたちを長い目で見てあげてくださいねw
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