厚真で暮らすこと8.灯りをともす
北海道胆振東部地震の発災から3年が経った。
この地震のあとも、全国各地で台風や大雨による水害があり、なんといっても新型コロナウィルスの感染拡大という未曽有の事態が、全世界を席巻する中で3年という月日。
1日、1日、日々の流れは飛ぶように早く感じるのだけれど、2018年の9月6日から"まだ"3年しか経っていないんだなぁ、というのが今の正直な感想だ。
"もう"と"まだ"の境目はどこにあるんだろ?
みんな平等に1分60秒、1時間60分で24時間、365日を過ごしているはずなのに。不思議だな。
自然のチカラの大きさを身をもって知り、日頃の人と人とのつながりの大切さを痛感し、生きていくことの容赦のなさを目の当たりにした、あの日。
この時期はふとした拍子に、当時の怒涛の日々がよみがえる。
あのときに自分にできることはもっとあった、という後悔に近い気持ち。未消化で心をグラグラさせる怒りにも近い気持ち。感情的な気持ちとしては、穏やかに過ごしたいのだけれど、相反して、記憶の経年劣化を許すな、忘れるな、と強い意志が自分の中にあるような、自分でもうまくコントロールが出来ない。
あの日、厚真を襲ったのは地震だけではなかった。同時に、地震による土砂崩れが起こり、真夜中、寝静まる家屋を襲った。
失った命、助かった命。
どちらも私たちにとって大切な友だちに起こった現実。厚真に来て、これほど打ちのめされたことはない。
発災の翌日、避難所で偶然、会ったとき、「見つかったけど、ダメだったわ」と気丈に振舞っていた姿。
発災から1年の追悼式を抜け出したとき、「なんで1人だけ残していくんだろう……」とつぶやいた消えそうな声は、思い出すだけで胸がギュッとなる。
周りからすれば、生きていてくれたことは喜びであったとしても、本人にとっては『残された命』の重たさを抱えているのかもしれない。
今、自分がここに生きている意味を必死に受け止めて、立っている。
でも、その頑張りを誰よりも認めてほしい人、いちばん会いたい人には、もう会えない。その事実がいかに苦しくて、悲しいか。いくら慮(おもんばか)ろうとも、無力さを突き付けられるだけで、やりきれない。
残酷ではあるけれど、あなたの苦しみは、あなたのもの。私の悲しみは、私のもの。みんなそれぞれ。相手の気持ちを100パーセントで理解し、代わりに背負うことは出来ないのだと思う。
でも、わかり得ないとあきらめているわけではなくて。危うくなった時に手を離さずいることだったり、必要な時に必要な分だけ手をつかめる範囲にいたり、生きることを放棄せず、自分の人生を歩んでいけるよう、本気で関わり続けることは私にも出来る。
と、理想は理想として掲げ続けるけれど、実際に出来ることはなかなか少ない。それでも、思いをもって動くことに何かしらの意義があると信じて、発災の翌年から有志でキャンドルナイトを実施している。
有志といっても、一緒にやりませんか?と声をかけて、いいよ!と来てくれた人たちと、他愛もない会話をしながらキャンドルホルダーを作り(紙コップに絵を描くだけ)、並べて、灯りをともすというなんともシンプルな催しである。
今年は、8月に町内で新型コロナウィルスの感染が確認されていたこともあり、開催するかギリギリまで悩んだ、本当に。
開催予定日の3日前に、やっぱりやろう、と決めて声をかけた結果、小学生から中学生、保護者の方や地域の方など、約30名が一緒に場を作ってくれた。感謝、感謝。
毎年、中学生がキャンドルの配置についてレイアウトを決めてくれるのだけれども、年々、腕を上げているように思う。
今日は今日で午前中に吉野地区に設置された献花台へ行ってきたのだが、入り口からずらりと報道関係者が並び、空き地スペースに車も入れられず。
仕方がないので近くに車を停めて、足早に献花台前に行き、お花を供えて退散……。まぁ、みなさんもお仕事ですから、とは思うけど、ね。
(土砂崩れのあと。少しずつ緑になってきた山肌)
新しく建てられた慰霊碑の前での黙とうも、カメラ、カメラで大賑わい。
子ども教室の現場はいつも通りで、子どもたちと一緒に過ごせる時間に癒されたものの、なんだかゆっくりお参りが出来ていないことに、いささかモヤモヤし、日も暮れた頃、慰霊碑の前でそっと手を合わせてきた。
それでも、ちょっとばかり心落ち着かず、スイカを口実に近所に住む友だちにLINE。夕食時の忙しい時間にも関わらず、「おいでよ!」と言ってくれるありがたさ。小1時間ほどおしゃべりして帰宅した。お土産にもらった肉じゃがは、一口だけ食べて我慢。明日の朝ごはんにいただきます。
さて、また日々は続いていく。
「あぁ、今日も1日、お疲れ様」と言える明日が来ることを願おう。