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仕事のこと15.ガクシュウイヨク

「この前のテストの点数さ……」

ばつが悪そうな苦笑いとともに寄ってきた少年たち。思わず、何点満点のテストだったのかな?と確認する。

地域の有志で運営する塾で英語のセンセイを担当して早数年。

保護者の皆さんは月謝を払い、送迎も行い、我が子の学力向上や学習習慣の獲得を願っているわけである。成り行きでお手伝いすることになったとはいえ、その思いには応えたい。

が、しかし。

「だって、勉強するの、めんどくさかったんだもん」

って言われたら、あ、そうですかー、本人にその気がなければ、なにも響きませんよねー、となりますわいな。

こちらもね、時給500円分の仕事はしてると思うの。テストの日程や出題範囲を確認して、今週はこれ、来週はこっち、と準備をしているわけです。


まぁ、それは全然、苦ではなく。自分の勉強にもなってるので、モチベーションもあるから、かまわないのだけれども。

子どもたちのテストの点数自体にさほど重点は置いておらず。

それよりも、一緒に勉強したところがテストに出て解けた!とか、成績が上がる嬉しさとか、「やった!」と思えることが自信になってくれたらいいな、と。


とはいえ、今回の態度は目に余る。やらなきゃならぬテストの日は前々から決まっているわけで、部活だろうがゲームだろうが、時間の使い方も自分で決められる余地があった。結果、面倒だっただの眠かっただの、ヘラヘラっと言い訳しに来られりゃ、「……それで?」ってなるわ。私だって暇じゃない。


塾に来てる子どもたち、自主学習会Light Houseに来てる子どもたちから、"勉強"とか"テスト"とか"受験"に対して出てくる言葉が、ちょっと気になっている。

「どうせ、成績には関係ないから」

「どうせ、部活と生活態度で推薦とれるから」

「どうせ、○○高校を受けるから」

これらに続く言葉は、「そんなに頑張って勉強しなくてもいいんだ」

はて、この子たちにとって"勉強"って何なんだろう?

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勉強の意味を狭く教科の学習と解釈するとして。

自分の中学・高校時代を振り返ってみれば、コツコツ勉強をするタイプではなかったし、どちらかというと、試験前2週間が勝負!でテストの点数をとるための勉強しかしてなかった。

高校生の時は、公民(政治・経済)が好きで、現代文と英語は、受験科目だったのもあって、そこそこ勉強した記憶はあるけれど、知識として身についているかと問われれば、かなり怪しい。

数学や理科は本当に苦手、というか自分の人生において、ヤツらとは直接の関わりではなく、誰かが私たちの生活に使い勝手が良いように加工してくれたものを、ありがたく使わせてもらえたらそれで良し!と思っていた(今もそう思っている)

ただ、教科の得手不得手、好き嫌いはあったけど、勉強しなくてもいいや、と思ったことはあまりない。

だから、子どもたちが「どうせ、○○だから、勉強しなくてもいいんだ」と、サラッと口にする感覚に違和感を覚えてしまう。

学校の勉強はするものだ、と染みついてしまっているのか。これも従来型教育ってヤツの賜物(たまもの)なのか、功罪なのか。

勉強する=成績やテストの点数を上げる、行きたい高校や大学に入る、だけではもちろんないけれど、ひとつ、このようなわかりやすく、単純な目標にさえ、興味を示さなくなっている子どもたちの、ガクシュウイヨクって何なのか、結構、難問です。


最近、これから子どもたちが生きていく・創っていくであろう社会について、話を聞いたり、本を読んだりしている。

そのなかで、ICT、いわば最新の技術を使い、従来のただ知識を教える教育ではなく、自ら学ぶ環境を整えていくことが求められている、と語られている。

今よりももっと自分の考えを持つことが重要になり、その根拠となる知識を、自分で探しに行かねばならない世界、になっていくということだ。

ということは、今は教えてもらう勉強だから面倒だと感じるのかな?

じゃあ、自分の興味に合わせて、道具を自由に使っていいから、調べたり考察したり、意見を述べたりしてごらん!っていう仕組みになれば、勉強は面倒なものじゃなくなるのか?


1人1台パソコンやタブレットが支給され、中学生でスマホを持っている子も珍しくない。でも、それだけで子どもたちの視野が広がって、学ぶことへの興味・関心が深まるという簡単な話でもないことが、子どもたちの様子を見ていてわかる。

仕組みや道具が整っても、それを動かすのは人だから。人の心を動かせないと、その仕組みや道具は本当の意味で機能しないのだろう。

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学習意欲って、外からの刺激を受けて、自分の内側で消化して、興味関心が生まれて、また外側に広がっていく、その繰り返しによって深まっていくものだ、という話がこの前、読んだ本に書いてあった。

大人になった今、その感覚はとてもよく理解できる。

ただ、その感覚が分かるがゆえに、先読みしすぎて、子どもたちに大人の理想を押し付けることにならないか、若干、悩ましくもある。

引っ張る匙加減、歩幅や歩くスピードのバランス、その調整が難しい。見誤ると、大人がさせたいことになりかねない。むむ。

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勉強の意味や種類、方法はいろいろある。教科の学習も、テストに向けての勉強も無意味だとは思わない。だって、どこに自分の世界を広げるきっかけが転がっているかはわからないから。

「どうせ、テストの結果なんて関係ないから」「勉強するのめんどくさいし、どうせやってもできない」とヘラヘラしている胸の内も、本心には別な思いがあるかもしれない。

せっかくもらった機会のうえに、時給までいただいてるんだから、『やれば、出来る』を合言葉、もとい呪文のように唱えながら、少しでもみんなの心が明るくなるように、私自身があきらめてはいけない。


今月は学力テストに期末テストも控えております。出題範囲の確認しますかね。

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