ムリを理解する組織開発
自然体であることを軸に組織との関係を見つめることが、組織貢献へと繋がっていくのではないでしょうか。
自然体で在るためのエネルギー
誰もが、自分と他人を区別できます。だから、自他を区別できるということは、人としての常態なのでしょう。でも、常態であることは、必ずしも自然体ではないようです。
自他を区別できない状態に陥るとは、統合失調症(かつて二重人格と呼ばれた症状)を発症したことになります。そして精神医学では、自他を区別するためのエネルギーが不足していると捉えるそうです。つまり人の常態とは、統合失調症を発症しないようにエネルギーを使っている状態であって、まったくエネルギーを消費しない、言うなればとってもラクな状態ではないということになります。
同じような現象は、睡眠においても見られます。一般に睡眠は、休息を意味するように捉えられているでしょう。しかし実際は、有限なエネルギーを体内活動に集中させるために眠るのだそうです。つまり、体内で何らかの浄化を行ったり、あるいは細胞レベルで成長したりするために、人は眠るのです。これは、決して”休息”ではないでしょう。
自然体でいることを、一般にストレスレスな状態と理解されているように思われます。しかし、自らが自然体でいることは、それなりにエネルギーを必要とする行為でもあるのでしょう。
自然体を守れない
ビジネスは、スキルあるいは時間を、組織に“見返りのある譲渡”をすることで成立します。ただし、どのようなスキルを譲渡するか、あるいは何時から何時まで譲渡するかなど、一定の自由は確保されています。そこには、当然、譲渡不可能な領域を保持する権利も有しています。
それでも、このような譲渡は、自然体で在ることへの制限を加えるものです。ただ、一定の権利のもと、それを許容する自由が与えられているに過ぎません。
ところが、組織の論理によって、その制限の範囲を超えた要求が突きつけられることがあります。これが、いわゆるハラスメントへと繋がるのかもしれません。
自然体が許されない組織
組織メンバーには、おそらく、その組織の組織目標に合意することが求められるでしょう。そして、組織目標に向かう意志あるいは能力がないメンバーに対しては、「組織目標に向ったほうが得だよ」と、指導されるようになるのではないでしょうか。
しかし、このような啓蒙思想的態度は、多様性の名の下に、瓦解へ向かっているように思われます。すなわち、個々人が持つ譲渡不可能領域に対する権利の主張が起こっているように見受けられます。
そこで、改めて組織目標と個人目標の合致が求められ、パーパスの策定などが流行っているのかもしれません。ここでは、組織のあるべき姿が模索されると同時に、自分自身の在るべき姿もまた、明らかにすることが必要になってきます。
ところが、この文脈で導き出される“自分自身”が、必ずしも自然体ではないことに苦慮する人も、少なくないのではないでしょうか。例えば、ハラスメントや「自分探し」、あるいはドラマ『終わりに見た街』で軍国主義に染まる21世紀の若者像などを、このような状況に対する、一種のデカダンス(没落あるいは退廃)とみなせば、それは同根であるようにも思われます。
自然体の源泉
論理的であることは、わかりやすさに繋がります。しかし、わかりやすさは、デカダンスを招くのではないでしょうか。
動けば腹が空く。仕事をすれば、趣味の時間が削られる。基地造設に予算を使えば、文化予算が減る。何かをすれば、何かがなくなる。世の中の行為は、必ず何かとのトレードオフで成り立っています。
後世に名を残す芸術家は、概ね、既存の価値観からの逸脱を成し得ました。だからと言って、トレードオフをなかったことにするポピュリズム政府は、必ず破綻します。むしろ「既存からの逸脱」とは、このトレードオフ関係をもたらす相手を、組み替えることにあるのではないでしょうか。
何をもって自然体とするのかを問うことは、自身にとってトレードオフ関係にあるものを明らかにすることだと思います。例えば、仕事も趣味と同様に、自分らしさを表現する手段だと捉えるなら、時間は、必ずしもトレードオフの関係に上ってこないでしょう。
自分にとっての自然体を軸に、組織とのかかわり方を見つめることが、翻って、自分自身を”ラクに”してくれることのように思われます。