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正しさで押し切らない組織開発

自身の感情を他者も認識できるものにすることを出発点とすれば、相互理解は進んでいくように思われます。

『SHOGUN将軍』で日本理解は進んだか?

『SHOGUN将軍』はエミー賞を獲得するほどに、アメリカ人に受け入れられました。しかしこれは、プロデュースした真田氏が期待した、“正しい日本”への理解が進んだというよりも、むしろ、単にそれを、アメリカ人が“格好良い”と思ったに過ぎないように思えます。
例えば、世界的に広まった“コスプレ”に対しても、日本人は正しさを重要視する傾向があります。しかし欧米人は、自分がカッコイイと思うスタイルにアレンジすることに価値を見出しています。
ここで、この差異に対しては、カッコイイと思うか、ダサイと思うか、個人の価値観がぶつかるでしょう。そしてそれは、僅かな差異であるがゆえに、互いに相手を受け入れることができなくなるのだと思います。
そこで、もしここに、“正しさ”という尺度を持ち込んだらどうなるでしょうか。おそらく欧米人は、それを自由への制約と受け止めるように思われます。
しかし、それが単なる跳躍として示されるのであれば、すなわち、全く異なるものとして提示されるのであれば、それは「良い悪い」を超えたところで評価され、比較的受け入れやすくなるのだと思います。おそらく『SHOGUN将軍』のエミー賞獲得も、このような思考プロセスの上に成り立っていたように思われます。

フェイクは“跳躍”か?

それでは、この跳躍とは、どのようなものなのでしょうか。『SHOGUN将軍』であれば、それは良い意味での“期待の裏切り”でしょう。そして、それは“わからなさ”に通じるものでもあると思います。
この“わからなさ”を喜ぶ感性は、ネット文化を支えているという指摘があります。だとするならフェイクもまた、「本当かも知れない」という曖昧さを喜ぶ人が投稿し、それを楽しむ人が閲覧することを前提にしていると言えそうです。
ただ、それは、本当のことが知りたいと思ってネットを使う人に対しては、混乱を来すものともなっています。
ネットユーザーにしてみれば、流された情報が、エンタメなのか報道なのか、その曖昧さもまた、楽しむ材料となるのでしょう。しかし、それが社会に混乱をもたらしているのも現実です。そこで、その境界を確かなものにしようとする動きもありますが、「表現の自由」の名の下に、それは遅々として進みません。

どこに“標(しるべ)”を見出すか?

何が善で、何が悪かは、結局のところ、自ら考え抜く他ないのかもしれません。ただ、「”標”無き思考」は、所詮、対立を生むだけのものかもしれません。そこで、科学を頼りとした、合理的で理性的な思考を“標”とするよう、万人に求められているように思われます。
しかし、科学は万能であるどころか、世の中のほんのわずかな部分を明らかにしているに過ぎず、しかも、それは限定付きの理解に留まるものです。ましてや合理や理性は、感情を無視した思考です。これでは、万人に共通した“標”には成り得ないでしょう。
そこで、社会的な共同作業を通じて現れ、他者にも共有されるものが“標”と成り得ると考えられているように思われます。これなら、独善的なものには成り得ません。しかし、これもまたマジョリティに従わせることに他ならず、普遍ではあり得ないでしょう。
結局は、異なる意見(考え・希望・拠り所など)も評価し、常に“標”を更新していくことが求められるように思われます。ただ、対話、心理的安全性、あるいは多様性などが重要視されているにもかかわらず、実体は、妥協やバーターあるいはディベートなどに陥り、むしろ分断を深めているようにも見受けられますが…。

相互理解の架け橋

新たに生まれた“標”とかかわり合うということは、思考し続けるということでしょう。それは、伝統的規範や価値観を壁(守るべきもの)とせず、常にクリティカルな批判(フィードバック)の対象とし、変更を加えていくことだと思います。そしてその根拠は、自分自身の感情に置くべきではないでしょうか。
『SHOGUN将軍』は、“正しい日本”を伝える作品として完成させることができ、その点で製作者の感情は満たされたはずです。一方、それを受け止めたアメリカ人も、自身の価値観からの跳躍を与えてくれたことに満足し、エミー賞を贈ったのではないでしょうか。
しかし、これでは製作者の意図が、真に理解されたわけではありません。だからこそ、双方が、自身の感情において満足した時点を出発点として行われる次の行動が、期待され、また、受け入れられていくのだと思います。
おそらく、人と人の繋がりは、このように紡がれていくのでしょう。そして、ここに価値観や自由といった固定観念を当てはめることなく、これをただ変化として受け入れていくことが、自身の感情に素直に従うことになるような気がします。
そして、そうすることが、自身の感情を他者も認識できるものにし、結果として相互理解が進んでいくように思われます。

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