二〇一六年五月 肆
scene 121
ナルヨシの友人とキョースケセンパイご夫婦がやってくる日だ。昨日は一家総出でのうえ孫兵衛さんも応援に駆けつけ、敷地内の畑に野菜の苗を植えた。おかげで身体の節々が痛い。ケイトとナルヨシは、小学生の時の農業体験以来だとはしゃいでいたが、自宅敷地内とはいえかなり広大な畑は、体験どころではなくずっと大変だとぐったりしていた。
「昨日植えたお野菜はいつ食べられるの?」
朝食を終え、ご飯茶碗に注がれたお茶を吹いてさましながら、ケイトが祖母に尋ねる。
「早くて七月だべなぁ」
「早く食べたいな、私が植えたトマト」
「ケイト、野菜はほっといてできるもんではねえぞ。肥料やったり草取ったり、枝を補強したり、世話しねえとダメなんだがらな」
「はぁい、ちゃんとお世話しますー」
「ナルヨシ、友達はいつ頃来るんだ」
俺もご飯茶碗に継いだお茶をすすりながら尋ねる。
「うん、お前らバカだから課題なかなか進まないだろうから、早く来いって言った。九時台の左沢線で来るって」
下りの左沢線は、朝七時台から夜一二時まで、一時間に一本走っている。朝の通学時間帯を除くと、山形新幹線の到着にあわせてあるため終電は午前零時だ。
「あらまぁ、詩織と一緒にクルマで来るんじゃないの」
母が少し驚いて言う。俺もてっきり一緒だと思っていた。
「ガキの用事にオジキとアネさんに世話になる訳にはいかないって。定期もあるし」
「なえだて、さすがってかなんてえか」
父が感心する。
「詩織と阿部が面倒を見てるのなら、そういう子に育つわね。そもそも親がそういう教育をしてるでしょ」
「でもさ、ケイトもナルヨシも成績いいのね。お姉ちゃんびっくりしちゃった」
「あれあれ?おバカだと思ってたんだぁ」
ケイトが雪江に向かって小さく舌を出す。
「ユキお姉ちゃんも、高校のときは成績トップクラスだったのよう」
母がそう言うと、雪江は胸を反らせる。
「信じられない」
ナルヨシが冷静につぶやく。
「ナルヨシぃ、あんた私をアホだと思ってるでしょ絶対。じゃあ、今日の課題見てあげるわよ。私が賢いとこ見せてあげる」
「えー。アネキが近くにいたら、菊池と志田が課題どこじゃなくなるって」
雪江はナルヨシの言葉の意味をちょっと考えて、褒め言葉であることに気がついた。
「やだーナルヨシったら正直者ぉー」
そう言ってナルヨシの肩を抱いて頬ずりする。ナルヨシがまた真っ赤になった。
「やめろってアネキ」
その光景を、両親と祖母が柔和な微笑みをたたえる。一人娘であった雪江に弟と妹ができ、明るくじゃれ合う幸福な家庭生活を味わっているのだろう。むろん俺も同じように、担任するクラスの生徒とは違う、より暖かな感情でケイトとナルヨシを見ている。
「ホントむさ苦しいから、私はアスカとレイと遊んでこようっと」
ケイトが立ち上がって台所へ向かう。
「こないだのアスカとレイみたいに、どこから入っていいかわかんね、ってなるから、駅まで迎えに行くわ」
ナルヨシが立ち上がり、食器を流しに運ぶ。
石川家の正門は、ほぼ駅徒歩ゼロ分なのだが、寺か神社かという感じで樹木や生け垣、壁で仕切られているため、気軽に入れる雰囲気ではない。ご丁寧なことに、交番も近くにある。
「俺もコンビニ行ってタバコかってこ」
俺は茶をすすり終わり、ナルヨシと同じように自分の使った食器を流しに運び、部屋へ戻って財布を持つと、玄関へ向かった。台所では、エプロンをつけた雪江とケイトが洗い物を始めたところだ。新しくこの家の一員になってまだ一年足らずの俺が言うのもなんだが、ケイトとナルヨシがやってきてからは家の中が明るい。これまでも暗い雰囲気ではなかったが、はっきりと明るい雰囲気にシフトチェンジしたと思う。
玄関を出て、正門に続く小径を歩く。春の山形は、暑くもなく寒くもなく、本当にちょうどいい気温だ。天気も良く、家の中で課題をやらなければならいナルヨシたちが気の毒になる。駅前のコンビニでタバコを買い、ついでだからと駅の喫煙所で一服していると、駅前交番の大沼巡査が近寄って来た。
「若旦那、おはようっす」
大沼巡査は帽子のひさしに指をかけて軽く頭を下げる。俺は卑屈にならない程度の角度を心がけて深めにお辞儀を返した。
「おはようございます、大沼さん」
駅前交番の巡査ではあるが、実質的に石川宗家の守衛をしてくれている大沼巡査には、常に心配りしておかねばならない。
「若旦那はタバコ喫うんだねっす」
「はは、今は流行らんですよね」
「俺は高校んとき喫ってましたけど、柔道を本気でやるようになって、やめだっす。体力に響くことがはっきりわがったのよ」
「大沼さん、高校時代喫ってたって、やばいじゃないスカ」
俺は苦笑してタバコを消し、灰皿に入れる。大沼巡査も笑った。
「まぁ時効っつうこどで。俺、中学あたりからヤンキーだっけのよ。俺天童だげど、天童って、俺らの頃すごく悪いっけのよ。山形市内の中学なのメでねえっけ」
「そんなこと言っちゃマズいんじゃないっすか」
「かまねっす、清志郎と陸王はそのこと全部おべっだがら」
「店長の武勇伝は聞いたことありますわ」
「俺が三年のとき一年だったのよっす、清志郎だは。寒河江さアガスケヤロいだって聞いて、ヤキイレに行きました」
「ははは、怖いですな」
警察官がそんな旧悪を話していいのかと思ったが、話してくれるということは俺を信用しているのだろう。ありがたくお聴きする。
「清志郎は、俺になんぼ殴らっでも、スイマセンって言わねのよ。ありがどさまっすとが、ごっつぉさまっす、とか。いい根性だってほめるしかねえのよ」
「店長らしいっすね」
「清志郎の他に、同じ学年でもうひとりいい根性のヤロがいたっけのよ」
「阿部恭介さんですか」
俺が即答したので大沼巡査は目を丸くする。
「なんだ若旦那、おべっだなが、キョースケば」
「いや、今年の正月明け、店長の結婚式で挨拶しただけですけど。あ、おととい、山形市内で偶然会いました」
「ほいづはいがったなっす。キョースケの根性もただもんでねくて。俺の足払いで転ばねっけのは、柔道部でもなんでもないキョースケだけだっけ。俺はあいづさ後ば任せて引退して、柔道に集中したなよ。俺みてえな不良ヤロが警察官になれたのも、柔道しったっけがらだし」
「ほほー、やっぱり柔道ですか、大沼さんの体格は只者じゃないっすもんね」
大沼巡査は褒められるとすごく照れる。
「いや俺は柔道だけはスキでよー。大学にも誘われたげど、警察なら給料もらって柔道できるど思ってなー」
大沼巡査は照れ隠しに冗談ぽく言って笑った。その時、駅の入口階段のほうから、大声のあいさつが飛んできた。
「おまわりさん、アヨッス!」
「こんにちわっす!」
大沼巡査が振り向くと、菊池と志田は腰を四五度に折り、丁寧に頭を下げていた。かたわらのナルヨシも慌てて頭を下げる。
「なんだー、おまえだー。休みだから遊びきたがー」
「あ、彼らウチのナルヨシのクラスメイトでして。今日はみんなで連休中の課題を片付けるんだそうです」
「ほうがほうが、勉強すろよー。感心だなーおまえだー」
ナルヨシたちは大沼巡査にもう一度礼をして、石川宗家の門をくぐって中へ入っていった。
「さすが旦那様と理事長だ、子供ばちゃんと見てる。あいつら、悪そうな面してっけど、真面目だっけ。ほんでいい筋肉しった」
「わかるんですか」
「こないだ、交番の前を挨拶して通っていったとき、肩と背中をポンポンただいでみだのよ。触ってみっど、筋肉の質がわがっから俺」
「さすがです。これは秘密ですけど、彼ら二人は陸上の素質があるんで、その枠で入学だそうです」
俺は声を小さくして大沼巡査に話してやった。
「んだがしたー、ありゃいいアスリートになんぞ」
そんな話をしているところへ、駅のロータリーに白いミニバンが入ってきて、俺達の前を通り過ぎて一般車乗降スペースにハザードを出して停車した。ドライバーが降りて後部スライドドアに侍ると、自動でドアがゆっくり開く。降りてきたのは、キョースケセンパイと詩織さんだった。
「大沼先輩、ご無沙汰だっす」
「大沼さん、ひしゃすいなっす」
キョースケセンパイはその筋の人らしくない、普通のサラリーマンのようなスーツでノーネクタイ、詩織さんも地味なグレーのパンツスーツである。ドライバーだけが、その筋の人が好む派手目のジャージ姿だ。そういえば彼は店長の結婚式でもキョースケセンパイに付き従っていた男だ。あのときは丸坊主だったが、髪が伸びている。
「おう、キョースケ、長井先輩、こちらこそ久しぶりだっす」
大沼巡査はにっこり笑って挨拶した。あいかわらず、顔と体格に似つかわしくない優しい声である。
「私らがあまり大沼さんと話すのもよろすぐないがら、こんで失礼します。理事長さごあいさづ来たのよっす」
詩織さんはゆったりとした山形弁でそう語り、車を帰らせ、キョースケセンパイとともに石川宗家の門をくぐった。
「大沼さんもぜひ一度お茶でも飲みに来てください」
俺がそう言うと、大沼巡査はどうもっすと言って帽子のつばに手をやってあいさつとし、交番へ戻っていった。俺も門をくぐって家に戻る。
居間では、ナルヨシが菊池と志田に数学を教えている。ナルヨシの説明で方程式の解き方の基礎をマスターしたようで、楽しそうな表情に変わってきた。とても高校一年生には見えないものの、表情にはあどけないところが残っている菊池と志田だった。
「あ、石川先生、お邪魔しったっす!」
「チワース!」
菊池と志田が立ち上がって挨拶するので、俺は笑って押し止める。
「家の中じゃ俺は先生じゃないから、気にすんなって」
そうは言っても、学校で先生ヅラするために家では必死で勉強しているのだが。連休に入ってからちょっと遊びすぎている。俺も勉強しないといけない。
部屋に戻ろうと廊下を歩いていくと、奥の客間から話し声がする。あぁそういえばキョースケセンパイも来ているのだと思い出す。果たして俺が顔を出す席かとも考えたが、一応ご挨拶だけはしようと客間へ向かった。
客間の戸は開いていたため、膝だけを室内に入れて正座し、いらっしゃいませとあいさつをする。
「お邪魔しったっす若旦那」
「先日はどうもッス石川先生」
店長や荒木よりも歳上である長井ご夫妻だが、その筋の方だけに実年齢以上の風格が漂う。
「おらいのヤロベラば気にかけてけで、一緒に宿題すんべなてねー、できたあんつぁだずねー、理事長」
「でしょう?すごくいい子たちなのよう」
「慎太郎も蓮次郎も、ナルヨシくんのことになっとえらく楽しそうに語るんだっす。ちゃっこい頃からあいつらば見ったけど、友達なのいだためしないっけ。あの二人でばっかり遊んでだんだ。はじめでの友達なのっだな」
キョースケセンパイは神妙な顔で語る。
「友達いねえからつって、半端なチンピラヤロとつるんだりしねがったのも、あいづらの見上げたとこよっす。菊池と志田の兄貴は、息子ば甘やかさねっけ。兄貴も立派なよ」
「そういえばさっき、阿部さんは大沼さんに挨拶されてましたね。お知り合いだったんですか」
父が、客間の入り口で正座している俺に、中へ入れと手招きしたので、座卓の前で座り直しながら尋ねた。むろん、旧知であることは知っているのだが。
「大沼先輩は、俺が高校一年のとき、山形市内ばシメっだっけ大番だっす。おっかねえ人だっけ。先輩は柔道やってだげっと、足払いてゆう名のローキックよっす、バガバガやらっで。根性出して耐えだげっと、次の日から足痛くて痛くて、しばらぐ自転車乗れねくて、バスで学校通ったのよ」
「その頃ぐらいだべが。大沼さん、おらえのシマでやんちゃしたみでで、ほれ、その菊池と志田の親がらやんだころくらすけらっだなよー。くらすけはしたげっと、いい根性しったヤロコだって菊池と志田は言うんだっけ。長井さくっか、って聞いたら、警察に入って柔道続けるって言うから大笑いしたて。大沼さんとは、お父さんと結婚してから知り合いなったけど、菊池と志田が言ってたとおりの人だっけね」
「まぁ、不思議な縁ね。そんなことがあったんだ」
母が感心する。
「菊池と志田は左沢線で通ってるじゃないっすか、必ず交番の前で大沼さんに挨拶していくんですって。一度、挨拶していく彼らの肩と背中を軽く叩いてみたら、いい筋肉してたって褒めてましたよ。いいアスリートになるって」
「なえだて、ありがだいなっす」
キョースケセンパイは我がことのように喜んだ。
「あーくんがいいきっかけ作ってくれた。ねぇ詩織、菊池慎太郎と志田蓮次郎に、陸上部に入れって勧めてよ。実はあの子達は、陸上選手有望枠に入れてるのよ私」
「中体連さ出た時は、兄貴と一緒に隠れて応援行ったっけな。ヤロだ、あのえ足が速いとは思わねっけ」
キョースケセンパイがポツリと言う。
「うん、あの子達は磨けばもっと光る。これから本格的に陸上のための肉体づくりをしていけば、県大会どころじゃない力を発揮するはずよ」
「なえだて、おらいのヤロコだば気にかげでもらって、ほんてん理事長んどさあずげでしぇがったー。よっくどゆておぐがら、大丈夫だはー」
詩織さんがまた深々と頭を下げる。
「あどよっす、今日は理事長さ報告することあんなよっす」
「かしこまって。なにかしら」
「ようやぐ、子供さずかってなっす」
「あらまぁ。本当?よかったわぁ詩織」
「ありがどさまっす。ようやぐお父さんさ代替わりするいのよ」
「名字も長井に改めて、六代目か。めでたいなっす」
「襲名の方は理事長や旦那様には関係ない話だべげっど、ちゃんとご報告せねばと」
さすがにこれは、両親が祝いに駆けつけようという話ではない。俺は席を外すと挨拶し、部屋に戻って勉強を始める。
正午を過ぎた頃、雪江が昼食だと呼びに来た。
「キョースケセンパイと奥さんは、パインへ行ったわ。親友に会いたいのね」
scene 122
食べ盛りの少年ふたりを迎えた食卓は、とても賑やかだ。菊池も志田も恐るべき食欲で、普段よりだいぶ多めに炊いたという飯があっさり空になった。祖母はいい食いっぷりだとふたりを称賛する。
「おらえはオナゴばっかりだがら、こだいもまま食うヤロコばみでっど、気持ちがいいべしたね」
「そう言われりゃんだな、食いざかりのヤロコなのウチさはいねっけがらな」
「いや、コイツラの食欲はおかしい」
「ほだなごどゆたて、なんぼ食ってもすぐ腹へるんだも」
「そうなんだよ、家じゃオヤジと交代でメシ作るんだけど、俺んときは作りながら食っちゃうから、おかずが少なくなる」
「蓮二郎くんは、お母さんいねのがー。苦労したな」
父は茶をすすりながら神妙な言い方で尋ねる。
「オヤジ、もともと東京でヤクザやってたんだって。母親は最初からいないようなもんです、全然記憶ないから。オヤジは、勝手に出ていったとしか言いません。俺が小学校上がった頃に、なんかしくじって、東京にいられなくなって、長井の先代に縁があったんで山形へ来たって聞きました」
「俺のオヤジと仲良くなったがら、いつも一緒に遊んでだっす」
「慎太郎のお母さんにも世話になりましたし、長井のアネさんにも授業参観来てもらったりしました。阿部のオジキにも可愛がってもらいましたし」
「ほうがほうが、ほいづは大変だっけな」
「みんな俺を気にかけてくれたんで、大変だとも寂しいとも思わなかったっす」
「今度はナルヨシもいるしねぇ」
雪江が優しく微笑んで、少年たちを眺める。三人は眩しそうに目を伏せてはにかんだ。
「わかるわよね、あなた達は孤独じゃないし、自由なのよ。やりたいことを全力でやりなさい。もしそれが間違っていたのなら、私たち大人が全力で叱ってあげる」
母も優しく微笑む。少年たちは真剣な表情でうなずいた。
昼食後も菊池と志田とナルヨシは課題に取り組んでいる。雪江も、言ったとおりに指導を買って出て、ナルヨシは雪江が本当は賢いということを認めた。
三時過ぎにはあらかた課題が終わった。詩織さんから母に電話があり、キョースケセンパイが店長と本格的に飲み始めたので、母への帰りの挨拶は省略するそうだ。
菊池と志田は両親と祖母、雪江に丁寧に挨拶をして、玄関を出ていく。俺とナルヨシは駅までついていくことにした。
「おい、俺が家で石川先生をアニキって呼んで、理事長をお母さんって呼んでるのは絶対秘密だからな」
「バラしたら無期停学だ」
俺の言葉に菊池と志田がゲラゲラ笑った。
「でも、理事長は学校とまったく違ってたな。ほんとにお母さんみたいだ」
母親の記憶がないという志田が、玄関の方を振り向く。
「うわ理事長まだ玄関に立ってた」
俺も振り返ると、父と母が玄関の前で並んで見送っている。二人は慌てて最敬礼するが、手振りでいいからいいからと言って送り出した。
門を出ると、ケイトと白田明日香、斎藤怜が駅ロータリーのベンチに腰掛けて話をしている。俺たちは彼女たちのいるあたりへ歩み寄る。
「ケイト、どっか行ってたのか」
ナルヨシが声を掛ける。
「うん、天童のショッピングモール。駅の近くから無料バスが出てるんだよ、知らなかったでしょ」
ケイトがニコニコして答えた。
「うん知らない」
菊池、志田、白田、斎藤の四人は、なんとなくお互いを意識しているようで、視線を泳がせている。
「課題終ったの?」
「あぁ、アネキも見てくれたから、案外早く終わった。アネキ、ホントは頭いいんだってやっと認める気になった」
「ケイトは雪江様の事お姉ちゃんって呼んでたもんねぇ。やっぱり三浦も、家ではきょうだい扱いなんだ。なんか羨ましいな」
白田が会話に加わってきた。
「石川先生はお兄ちゃんなんだ?」
斎藤も続いた。
「ほいづは秘密だがら、バラしたら無期停学なんだど」
菊池の声は少し上ずっていたが、オチに少年と少女たちがどっと笑った。
「でも笑い事じゃなくマジで秘密な。お前たちを信用して家に呼んだんだから」
ナルヨシが真面目な顔で一同に言う。ケイトも目で一同に訴えた。
「わかってるよ、ナルヨシ。心配すんな」
「そ。わかってるってケイト」
「石川先生は、ウチの女性からはあーくんって呼ばれてるよ」
「バラしたら無期停学な」
ケイトの言葉に俺がオチをつけ、また少年と少女たちが笑った。
その日の夕食の食卓では、いつもは寡黙なナルヨシがよく喋っていた。友人を家に招き入れたことがよほど楽しかったのだろう。両親も祖母も雪江も、もちろん俺も、そんなナルヨシをほっこりとした気持ちで見ていた。
scene 123
教員二年目の日々は、昨年にも増して速いテンポで進んでいる感じがする。五月ももう下旬、中間考査の時期だ。試験問題を作るのは教員の仕事の一つだが、俺には貴重な資料がある。俺の指導係である佐藤さんがこれまで作った試験問題だ。
佐藤さんは今年の一学期末で退職されるのだが、半年休養した後、来年の春からは仙台の大学で非常勤講師となる。専攻のローマ帝国史にあまり関係のない、高校の社会科教員としての資料やノートはすべて、俺に引き渡された。荷物になるからもらってくれと佐藤さんは笑ったが、三〇年以上の教員生活で積み上げた仕事の集大成を譲られるというのは、緊張のあまり失神しそうだ。
ともあれありがたくこれらの資料を使わせてもらって、日々の授業や定期考査の設問に役立てている。俺も一緒に学んでいるようなものだが、少しずつ進歩しているという自覚はある。
定期考査の問題は、センター試験の設問形式にのっとって作っているが、一〇〇字程度で歴史上のある出来事をまとめるという設問を加えている。社会科の教員で作っている勉強会でのテーマで、センター試験形式の選択型回答だけでは、偏った学力になりかねないことへの対策だ。
そろそろ退校時間なので、仕事を切り上げて机の上を片付ける。そして軽音楽部の部室へ向かう。定期考査前の一週間は、部活動は自粛するよう通達されているが、べつに罰則があるわけではないためほとんどの者は意に介していない。退校時間近いが、多くの生徒が校舎内外に居残っている。夏に向かって日も長く、まだまだ暗くないというのもある。
軽音楽部の部室は、無人だった。練習生の木村には中間考査終了まで部活は休みと伝えている。部員たちもおとなしく試験勉強のようだ。俺は教員室に戻ろうとしたが、ふと隣の第三グラウンドに目をやる。
軽音楽部の部室のある棟は、旧校舎の体育教官室棟を使っている。旧体育館に隣接していたそうだが、それは取り壊されて、今は第三グラウンドである。ちなみに第一は野球部、第二はサッカー部が使い、第三は体育の授業用という位置づけだ。四〇〇メートルトラックがあるため、陸上部用とも言えるが、学院の陸上部は活動休止に近かった。
しかし、今年度は理事長が推進する陸上部再起動プロジェクトが動いている。他の運動部からスカウトされた数人の部員が、黙々とトラックを走ったり、ダッシュを繰り返していた。新入生部員として、白田や菊池たち四人もいる。
俺はグラウンドに入り、陸上部顧問の指導部教員に挨拶する。
「吉田さん、ご苦労さまです」
吉田というこの教員は、八年前に山形市の有名私大付属高から転職してきたという。五〇代前半で、指導部では大畑指導部長の次に高年齢だ。強面の大畑指導部長と真逆で、普段から微笑んでいるような表情である。
「石川さんの軽音部は、今日は静かなようだ」
「ははは、ご迷惑をおかけしてます」
「いやいや、音楽を聞きながら練習する選手だっているんだから、べつになんでもないよ」
「陸上部、部員増えましたね」
俺は何も知らないふりで言う。
「理事長から、陸上部再起動プロジェクト推進を言われてるから。在校生から、陸上競技に向いている生徒をスカウトしてる」
「あぁそれで。山口さんが時々面接してました」
「今のところ、二年生が五人、一年生が四人ですかね。一年の子は、なかなか素質がある」
「うちの下宿人の友達ですね。連休の時家に来て課題をやってました」
「ほう、さすが石川の若旦那ですなあ」
「学校では勘弁してください、その呼び方」
俺は苦笑して吉田に言った。吉田はニコニコしている。
連休明けに、菊池と志田、白田と斎藤の四人は陸上部に入部したとケイトとナルヨシに聞いていた。二人がそれぞれの友人たちに強く勧め、菊池と志田の方はそれに加えて、詩織さんとキョースケセンパイにまで勧められている。断れるわけがない。
「菊池と志田は、生来のものでしょう、良い筋肉をしている。短距離のランナーは、か細くてはダメなんですわ」
「駅前交番のおまわりさんも同じこと言ってました。交番の前を通る彼らの背中をポンポンと叩いたら、良い筋肉だったと」
「大沼のやつ、わかったようなことを言いやがる」
吉田さんは愉快そうに笑った。
「吉田さん、大沼巡査と知り合いでしたか」
「知り合いどころか、あいつが学校で暴れた時、締め上げて失神させた。あいつに柔道を叩き込んだのが私です」
大沼さんはあそこの高校だったか。全国的に有名な私立大の付属高で偏差値もそこそこなレベルなのに、毎年必ず並外れた不良生徒が数人いるというおかしな伝統のある学校だ。
「それは知りませんでした。柔道をやってたとは伺いましたけど」
「私は不良生徒担当として、荒れた学校を渡り歩いてたんです。いい加減くたびれてたとこ、大畑部長から誘ってもらって学院へ来たんですよ。伝説の安孫子清志郎が卒業したあと、彼のような生徒が出現したときのためにってことで」
「ほうほう」
「幸いなことにまったく騒ぎは起こらなかったんで、私は腰を落ち着けて柔道部の指導ですわ。残念ながら今年から部員がいなくなったんで、柔道部は休部」
「去年の西川とかは?」
「柏倉も西川も、真面目なケンカしかしないもの、指導するとこなかったねぇ」
吉田は愉快そうに笑った。そしてホイッスルをくわえて鳴らし、部員に声を掛ける。
「はいおつかれ、今日は終わりにしよう」
九人の部員たちが吉田の前へ整列する。吉田と並んでいた俺は慌てて数歩離れる。このままだと俺も一緒に陸上部員たちの礼を受けることになるからだ。
「整列、本日の練習終了、礼!」
陸上部員たちが揃って礼をした。菊池、志田、白田、斎藤もいる。俺に気がついた四人が、あらためて俺に軽い礼をした。俺は片手を上げて礼を返す。
「私に礼をされても、名前だけ顧問ですからね、陸上のことはよく知らないし、教えてやれるのは体力付けくらいだ。早くコーチが来てくれればなあ」
吉田は、部室へ向かう部員たちの後ろ姿を眺めながら独り言のように言う。
「コーチ、来るんですか」
母から非常勤だがコーチが来る予定だと聞いていたが、俺は何も知らない風で吉田に尋ねる。
「理事長のつてで、もと実業団の選手を招くそうだよ。五年くらい前に現役を退いて、その会社で社員として働いてたけど、配属された部署に馴染めないし、会社の陸上部も休部になって、退職しようと思ってた人がいるそうで」
「理事長の人脈はすごいですね」
「義理の息子でも驚く人脈」
吉田がまた冗談めかして言い、俺は苦笑する。
「実業団の選手って、現役退いてもその会社で雇い続けてくれるんですか?会社で仕事してるって印象ないですけど」
「俺の友達も、実業団で柔道やってたのいたよ。日中は普通に仕事して、定時で上がって稽古してたな。大会は業務出張扱いで、大会前は有給とって一日中稽古してた。今もそこの会社にいるけど、仕事でも一応責任ある地位だって。でも、会社の宣伝塔って割り切って、半日だけバイト並みの軽い仕事してあとは夜中まで練習、ってのが多いみたいだね。現役やめたら退職のほうが多いかな」
「なるほど」
「まぁ何にせよ早く来てくれないとな。俺も次のところに行けない」
「なんですかその話、吉田さん転職ですか」
「言ったろ、俺は荒れた生徒担当なんだよ。そう言う生徒をまとめて受け入れてる学校から誘われててね。理事長も了承してる。もともと学院には、荒れた生徒はいなかったわけだし。柔道部も休部だしなぁ。今年の新入生の三浦きょうだいは、俺の守備範囲じゃない。若旦那に任せるよ」
吉田は笑顔で陸上部の部室の方を指差す。菊池と志田はナルヨシと、白田と斎藤はケイトと、楽しそうに喋っているのが見えた。
「私だって理解不能ですよ、ホントは。平均点以上どころか満点な少年と少女ですけど、ガワが違っちゃってる」
「体育は外見の方でやってるよな。まったく違和感がないのがすごい」
「ケイトもナルヨシも、もちろん身体は本来の性ですけど、細身なのと身体の線が出ない服装なんで目立たないんですよ」
「暖かくなってきたけど、長袖のジャージだったな。さすがに薄着はできんか。体育はまったくだめみたいだな、成績は良いけど」
「吉田さんご存知でしょうけど、菊池と志田は、親の職業がアレなんで、友達を作らなかったんだそうです。小さいときからふたりで遊んでたと。ナルヨシがはじめての友達なんですよ」
「長井だってヤクザだからな。暴力団じゃないのはわかるが、今はそう思ってくれないから、親も子も気を使ってるんだな。でも、専門じゃない俺でも、菊池と志田はいいものを持ってるのはわかる。今度来るコーチが、その事情を理解できるやつだといいが」
「ダメだったら、吉田さんを離しませんよ、理事長」
吉田さんはそれは困ると言ってまた笑った。
(「二〇一六年六月」へ続く)