文学的タロットのアイディア(前半は村上春樹語り)
こんばんは。HIKOです。
今日はちょっとで、個人的に思ったことがありまして。それについてつらつらと書いてみたいと思います。一種の思考実験的というか、とりとめがない感じになるかもしれませんが、お時間あったらお付き合いいただけると嬉しいです。
最初に言っておきますが、今日の話題はいつもに輪をかけて理解されにくいというか、「分からん人には全然伝わらない」という類のことになると思います。でも、最後まで読んでいただけたらきっと新しい視点がある(かもしれない)ので、是非読んでもらえるとありがたいです。
1、村上春樹読者とタロットは相性が良いという仮説
私はそこそこ熱心な村上春樹先生のファンでして。「そこそこ」というのも失礼な表現かもしれませんが、「村上作品は全て網羅しました!」とは言い切れないので、「そこそこ」と言わせていただきます。
とは言え、主要どころはだいたい網羅してまして、一般的には「村上春樹ファン」と言って差支えないかと思いますので、「そこそこ熱心な村上春樹ファン」とさせてください。
さて、見出しについてですが、「村上春樹の読者はタロットと相性が良い
説」についてですね。
これは、村上作品のファンなら分かると思いますが、同氏の作品は、とにかく「メタファー」だらけですよね。「村上春樹と言えばメタファー」と言ってもいいんじゃないかと思うくらい、初期からとにかくメタファーづくし。
読んだことがない方には全然ピンと来ないと思いますが、ざっくり言えば、春樹氏の作品の多くが、現実と非現実の境目を行ったり来たりするようなものが多く、その「境目」を行き来する装置として「壁」や「穴」、「エレベーター」など、さまざまなものが登場します。
更に登場する人物やキーになる事物がそもそもメタファーであることも多いです。例えば「羊男」、「カーネル・サンダース」、「リトルピープル」、「空気さなぎ」、「騎士団長」などなど。枚挙にいとまがないくらり、挙げようと思えばいくらでも出てきます。
こんな独特な世界観の村上ワールドなので、「理解不能」「抽象的すぎる」「難解」と言って、苦手という人も多いですね。気持ちは分かります。
正直に言えば、現実的な「論理思考」タイプの人には難しいと思います。
春樹氏の作品は半ばファンタジーみたいなところもありつつ、でも基本的な舞台は現実、というバランスなので、いわゆる「マトモ」な論理的思考回路の人が読むと「バグ」に感じるんじゃないかなと思います。
「結局この結末って何なの?」みたいな、読後感がスッキリしないということもよく聞きますね。一般的な物語とすれば、まあ確かにそういう部分はあるかもしれません。特に「1Q84」を読んだ時は、私も「続編は出ないの?」と思ってしまいました。
2、村上文学は癒しである
そんな村上春樹ワールドですが、私は村上氏の作品には、一種の癒し効果があると感じます。これは、いわゆる「壁抜け」という部分、それこそメタファーの部分に関してそう思います。
うろ覚えで申し訳ないのですが、確か春樹氏のエッセイの「職業としての小説家」の中で語られていた内容で「地下二階に降りる」という表現があったはずです。
どういうことかと言うと、春樹氏が小説の中で描いているメタファー的な世界との行き来について、それはすごく奥深くに潜って取り出してくる、ということなんですね。
この時点で訳が分からないと思うんですけど、つまり、一般的な物語のなかで、比較的分かりやすい感情を扱う部分。たとえば主人公のトラウマだったり、何かの経験に対する感情体験を描くようなこと。それは個人的な体験の表層を取り出せば書けることで、読み手にも分かりやすい。
「こんな経験に基づいて、こんな感情があった。それを昇華していくストーリー」みたいな。そんなイメージでしょうか。まあ分かりやすいし、共感もしやすいですよね。
それに対して「地下二階」は、個人的体験のもっと下の方。ちょっと違っているかもしれませんが、確か「人間の総意としての記憶にアクセスする」みたいな文脈だったと思うんです。確か。
個人のレベルではなくて、「人間」としての無意識の部分というか。共通で持っている感覚、ということなんですかね。そういうところにぐっと降りて行って、そこから何かを取ってきて、それを描き出す、ということです。
…分かります?分からないですよね。正直、「村上春樹を理解しようとする」なんて、しなくていいと思います。ちょっとアレな言い方をすると「考えるな、感じろ」っていうことかもしれません。たぶん。
それで、じゃあ何が「癒し」なのかというと、これは私自身の感想です。春樹氏の作品は直接的に分かりやすい癒し系の作品では決してないのですが、その文章に触れていると、春樹氏と一緒に、正に「地下二階」に降りて行って、自分でも見えていない、奥深い根っこの部分を見るような感じがあるんです。
それによって、「癒される」という分かりやすい感覚とは違うんですけど、なんだかこう、心に何かが残されるんです。メタファーの世界である一方で、すごくリアルな存在感があって、その世界観やキャラクターが心に住み着く。残るんですね。
それが嫌ではなくて、ふとしたときに思い出して会話でもしたくなるというか、自分の心に「向こう側」と繋がるための装置が残される、みたいな感覚でしょうか。
分かります?まあ、分からなくても大丈夫です。たぶん多くの方は分からないと思います(笑)。だって、私の感覚の話ですし、感覚を正確に言語化できるようなスキルを、残念ながら私は持っていません。
言語化。
そう、「言語化できないことを言語化している」のが村上春樹氏なのかもしれません。世の中すべてのことが言語化できるわけではなくて、感情や記憶、思いなんて特にそうですよね。
それを、メタファーを使って物語のフォーマットにしているのが村上春樹作品なんじゃないかなと思います。そして、そうやって「言語化できない何か」を物語化することで、それを使って読者も「向こう側」の世界を垣間見る体験ができる。それが、一種の「癒し」「ヒーリング」になり得る、ような気がするんです。あくまでも個人的にですけど。
3、タロット×文学×癒し
さて、そこにどうタロットが関係するのか?というところですが、ここは割とシンプルです。
タロットこそ、メタファーそのものと言えると思うんです。だって、タロットはその絵に描かれていることに過去や現在の自分、もしくは相手、自分を取り巻く環境を投影して、そこから何かを見ることができるので、タロットを媒介として、自分の中から何かを「取り出す」作業をする、と言えると思うんです。
通常は、その作業はカウンセリング的に行います。先日も書いたように、ナラティブアプローチ的に(あるいは占いとして)。タロットを媒介にして語りを広げて、セッションを通じて癒しを得るんですね。
ですが、ここで一つの可能性として、「文学的可能性」を挙げてみます。
つまり、カウンセリングとして語るのではなく、引いたタロットを使いながら、そこから何かを取りだして、ものがたりを作っていくという作業です。
とか言いながらやったことがないので完全に想像ですが、例えばクライアント側がタロットのキャラクターを使ってものがたりを作ってみるとか。そうなると、アートセラピー的の文学バージョンっぽくなりますね。
アートセラピーでは通常、クライアントが絵を書いたり、何かの創作活動をすることで、それを通じて癒しを得ます。それを文学バージョンでやるとういうことです。
また、クライアントが書くのではなくて、カウンセラー側(この場合カウンセラーというのが適しているかは分かりませんが)が、タロットからクライアントの為に一つのものがたりを創造して、それをプレゼントする。
こんなアプローチ方法とか、どうだろう?と思いつきまして。
どうでしょうか?もしご興味あって実験にお付き合いいただける方いたら、教えていただけると嬉しいです。反応があれば、どこかでモニターをお願いするかもしれません。反応がなくても、そのうちモニター募集するかもしれません。
おわりに
今日はちょっとふわふわしたというか、若干変わったアイディアを出してみました。どうでしょうか?
何せ私も根がオタク気質というか何というかなので、ついついこういう方面にいきたくなっちゃうんですよね。文学は本当に、可能性が広くて面白いです。タロットとは離れますが、言語化できないことをテーマにしてまた書いてみたいです。
お付き合いいただきましてありがとうございました!良かったらついでにスキ、フォローなどしていただけると嬉しいです。また良かったらお立ちよりくださいませ!
※ちなみに村上春樹談義に出した内容は私の記憶ベースなので、微妙に違っている部分があるかもしれません。もし違ってたら申し訳ないです。
コアなファンの方で気づいた方いたら、優しく教えていただくか、もしくはそっとしておいてください。