人?組織?それともビジネスモデル?~経営の壁を打ち破るヒントとは~
11月16日(金)にbillageにて関西活性化プロジェクト主催の「年商60億の経営者が語る10億の壁。50名の壁。現在の壁。」が開催されました。
経営者層向けのセミナー、ということで、年商60億円を超える企業の方をお呼びして、経営の課題を解決するヒントを得よう、というものです。
今回の登壇者はこちら。
株式会社ナサホーム 代表取締役 江川 貴志さん
広島大学工学部土木科を卒業後、大手ゼネコンにて、土木関連の施工管理の技術者となり、大手不動産会社へ転職し、トップセールスとして活躍。1996年に株式会社ナサホームを設立。設立21年で年商60億円・社員200人に成長させ、現在、関西エリアで1位・2位を争うリフォーム会社となる。
大坂塾 塾長 大坂 靖彦さん
上智大学卒業後、松下電器に入社。その後、家業である年商7000万円の電気店に入社。その電気店を340億円・社員800名の企業に成長させる。その40年の実績的ノウハウを次の世代に繋ぐため2010年に大坂塾を主宰し現在、約600社の経営者が塾生となる。
対談形式ということで、参加者の方ともコミュニケーションをとりながらイベントが開始しました。
まずは3億の壁をどう越えたのか?
3億円の壁をどのように超えたのか。まずは江川さんからのお話しくださいました。
江川さん
「ほかの業界はわかりませんが、リフォーム業界ではよく3億円の壁といわれます。その実情をよく見てみると、社長がバリバリに営業をして、売り上げ2億円ほど上げている。残りの1億円をほかの3、4人の社員で上げているか、あるいは社長の下働きとして働いている。社長が主力となって営業をし、他社員が営業に出られず退職してしまう、ということが起きて、結局は売り上げ3億円を超えられない、ということがむしろ普通なんです。
ただ、自分がリフォーム業界に参入してから一年くらいで『社長自らが営業していてはだめだな。』ということを、予期していましたし勉強もしていたので、実際に行動に移したら、何の引っ掛かりもなく3億円の壁は突破できていました。」
続いて大坂さん。大坂さん自身には3億円の壁はあったのでしょうか。
大坂さん
「父親が経営していたナショナルショップ店はすぐには継がず、飛び出して10年くらいしてからまた店に戻りました。その時は創立して30年ほど立っていたが、『30年やってまだ1店舗かよ』と思いましたね。よくよく調べてみると、大阪でナショナルショップ店を10店舗以上出せているところはせいぜい1、2社。まずはナショナルショップ店の壁を破らなければと思い、ナショナルショップを脱退しました。その後はボランタリーチェーンに入って、そこから一気に伸びました。
ボランタリーチェーンにしてからの壁は、ボランタリーチェーンの中で自分のグループを一位にする、その後脱退して次のステージに行くことが壁だったように思います。」
経営者として会社をどのように舵取りしていくのか…従来のやり方を変える勇気や決断が大切なんですね。
次の10億円の壁をどう超えるのか
ここでは「組織をつくる」という文脈でお話をいただきました。
江川さん
「独立してリフォーム会社を立ち上げているようなところで10億円を超えているところというのはなかなかなく、周りからも10億円の壁があるということは聞かされていました。しかし10億円の壁も、3億円の壁の時と同様、勉強をしていたので何となく予期はしており、10億の壁とは『組織創りの壁』だと思いました。組織さえ創ればそんなに難しいことではないと。
3億円の時も、自分が営業をやめて管理の人たちに混ざって管理の仕事をしていたのですが、当時は社長一人と他社員、といういわゆる『文鎮型』の経営体制だったので、きちんと組織を創らなければな、と思いました。」
組織創りを意識し始めたのは、自身の性格もあったと江川さんは話します。
江川さん
「創業者の中でも自分は珍しいほうで、トップダウン型ではありませんでした。『これを言ったら明日から社員が出社しないのではないか。』というくらいの心配性で…。会議でも、社員の前で『これをやるぞ!』とは言い切れない。そこで、社員には会社の問題点や業界の問題点を提起してそれについてどう考えるのか、ということを聞いていました。すると、社員の中には自分と近しい考えを持つ人もいたので、そういう人に『それええなあ、ほな明日からやってみいひんか。』と、今思えばコーチングをやっていましたね。それがよかったのかな、と。」
コーチングをし、社員の意見を拾い上げていくことで、仕事を任せるようになりました。
江川さん
「仕事を任せるようになると、社員の中には『役職が欲しい!』という人もいたので、役職を与えて権限移譲をしていきました。これも大きかった。
もともと歩合給だけでやっていましたが、部下に雑用を頼みにくいんです。雑用を頼むと嫌な顔をするし、また、部下や後輩が入ってきてもほったらかしなんです。部下の面倒を見れば見るほど、部下が成長すればするほど、自分に振られる案件が減るから教えない。
それを受けて、評価項目を変えました。3分の1は自分の営業成績。3分の1はどれだけ会社の発展に貢献したか。そして残りの3分の1は、自分に部下や後輩ができたときに、どれだけ部下・後輩を一生懸命育てたか、という評価項目にしたんです。このことは10億円の壁を超えるときにはすごく役に立ちました。」
大坂さんは自身の「組織創りのこだわり」に関してお話してくださいました。
大坂さん
「創立当時は訪問販売型の家電営業をしていて組織作りに関しては何も考えられてなかったと思います。たくさん売る人が店長、という古い考えでした。ところが、店を3、4店舗ほど展開していって、それではうまくいかないということがわかってきました。
それから10億、20億、30億…と進んでいく中で決めたことが『運営のプロを育てよう』ということでした。チャレンジポストを取り組み始めたんです。」
チャレンジポストとは、なんと、新しく入ってきた若い人を店長にする制度だそうです。
大坂さん
「古くから会社にいる人はお客さんへの営業が非常にうまい。しかし若い人にはそれができない。その代わりに、会社との約束事を守るというのを前提に、日報の取りまとめや粗利の計算をさせると、古参の人よりもできるんです。当時は『何で後から入ってきた若い人が店長になるんだ』という意見もありましたが、役割分担をすることで結局はうまくいきました。
それが段々講じてきて、『トップセールスマンが店長はあり得ない』という考えが根付いてきました。」
役割分担を意識して人員配置をすることで、社員含めて多くの成功体験を得ました。
一人では立ち行かないこと、適材適所で組織を作り上げていくことが壁を超える要因になるのでしょう。
大きな大きな30億の壁…。
3億円、10億円、そして次は30億円…!さて、どうやって超えるのでしょうか。
江川さん
「25、6億円の時、当時は結構よかったのですが、先のことを考えたときに『このままでは成長できないな』と感じました。当時はいいリフォームをする会社として、チラシのデザインやオフィスを構える場所などを工夫してブランディングに注力していました。しかし、いいブランディングをしていくとそれに見合った社員が育たない、ということが起こりました。
建築会社は10年やっても半人前、といわれる業界なので、一朝一夕には優秀な社員は育たない。しかしそうすると新しいお店を出店できない。ここで非常に悩みました。30億の壁についていろいろ調べましたが、インターネットにも本もない。」
30億円の壁を超えるために多くの研究をしに方々へ訪問したり、同業他社の研究をした江川さん。その中で一つのヒントを見つけました。
江川さん
「調べに調べて気が付いたのは、自社より急激に伸びている会社は水回りのことしかしていないようなんです。それまでは1000万円案件だと他社と比較しても選ばれているような会社ではないと認識していたんですが、よくよく調べてみると、1000万円案件は手離れが悪く、クレームも発生しやすく、また専門知識を持つ現場監督を配置しないとできない案件が多いんです。そこの会社は端からそういう案件を受けていないんですよ。
うちはそこを一生懸命頑張っていました。たくさんの専門知識を持つ人を投入してやっていましたが、どんどん伸びている会社はもうそういう仕事はやりたくないんだろうなと感じました。水回りだと一日案件で簡単にできるものが多いので、水回りに絞れば社員教育もすごく楽にできるしブランディングも考えなくていいよね、という結論に至りました。その分野のスペシャリストになれますし。」
ブランディングに注力していたことは実は会社の成長にはつながらなかった…そう思った時、江川さんは唖然としました。
二日ほど悩みに悩んで、そして三日目には結論を出しました。それは、別会社を作ること。
江川さん
「水回りのことを専門的にする会社「みずらぼ」の設立をしようと決めました。私にとって30億の壁とは、ビジネスモデルの壁でもあったのです。
その後は業界新聞やいろんな人が視察に来ました。いろんな会社が視察に来て、埼玉や三重、東京などで類似した会社が出来ましたが、大半は弱っていますね。先回りして展開できたことがうちとしてはよかったのかな、と思います。みずらぼでは大きい工事はやらない、ということを徹底したのが理由だと思います。」
次のステップとして出店攻勢をかけるぞ!という段階で江川さんは大坂さんと出会います。その時のことばを今でもはっきり、覚えているそうです。
「あんたの会社はしっかりできているのか」と。
ここで大坂さんが30億の壁についてお話しくださいました。
大坂さん
「7億円の時にマツヤデンキと提携をしました。私は『弱者の戦略』をやりまして。当時、私は体が弱く記憶力もありませんでした。記憶力は脳腫瘍が原因でしたが、当時はなぜこんなにも他の人よりも劣っているのだろうと感じていました。しかし良かったのは、体が弱くて記憶力がなかったから、たくさんの資料を集めていたんです。4、50年分のあらゆる業態のデータを持っていましたから、そのことが、今の経営にも大坂塾にも役立っております。
7億の時に、当時大阪でものすごく伸びていたマツヤデンキのことを知って、『あそこのノウハウを知りたい!』と思い提携をしました。」
マツヤデンキとの提携は当時とても迷ったといいます。広島にはもっと条件のいい他社がいる、と社員はみんな口をそろえて言います。それでも大坂さんはマツヤデンキを選びました。
大坂さん
「売り上げの七割がFC(フランチャイズチェーン)、というマツヤデンキの戦略に惹かれました。社員が推していた他社は売り上げこそ一位で王者とまで言われていましたが、FCによる売り上げは一割。当時、香川からのこのこ出向いたところで相手にされるだろうか、と考えていました。それならば、FCが7割の会社のノウハウを10年かけて手に入れたい、と思い、マツヤデンキの門をたたき、50番目に加盟しました。」
加盟して5年後にはなんと加盟店95社の中で一位になりました。社員の頑張りのおかげです。しかし、大坂さんはあることに気が付きました。
大坂さん
「1位になって気づいてしまったんです。1位になったらその上がない。もっと勉強したいのに、一位になったらその先がない。もっともっと、どんどん次のステージに立ちたいのに、1位になったらその先は脱退しかないんです。」
7億円の次は37億円の壁。なかなか抜けられなかったのには、様々な要因がありました。
大坂さん
「マツヤデンキの中で1位になると、ある程度発言力が出てくる。それに対して良しとしない人たちもいたり、マツヤデンキの本部が地方へどんどんお店を出店するものだから、自分たちの売り上げにつながらないんです。
困りました。恨みさえしました。しかしそのおかげで必死に脱退を考えられたので、ある意味マツヤデンキの当時の担当者は功労者だったと今では思います。」
大坂さんは考えました。マツヤデンキで1位になってその先はない。しかしそれでももっと売り上げを伸ばしたい…。ちょっと話はそれますが、大坂さんは酒事業に乗り出しました。
大坂さん
「酒事業に乗り出す、というタイミングでトイザらスの会長に話を聞いたんです。
当時ブッシュ大統領が日本に対して岩盤規制を解除しろと叫んでいた時代だったのですが、アメリカでのトイザらスの映像を見て衝撃を受けました。大型の店舗で客が次々と商品をカートの中に入れていくのです。それが日本に持ち込まれたらどうなるだろうか…。そう想像したとき、日本の電気業界も大型化になるだろうと思いました。そこでマツヤデンキとは方向性が合わなくなり、脱退に至る、という経緯です。」
しかしそう簡単にはいきません。トイザらスのような大型店舗を日本で展開しようとして倒産した会社を、大坂さんは数多く目の当たりにしました。大きな力を持ったがゆえの悲劇だといいます。
大坂さん
「力を持ったから成功するわけはなく、兆しを読む力が重要なんです。世間の流れや10年後を正しく想像できる力を持つことこそが経営者の持つべき力なのではと考えます。」
みずらぼのその後
ここで少し話を戻しまして、江川さんのみずらぼのその後についてお話を伺いました。
江川さん
「当時ナサホームの役員をしていた社員が『みずらぼの社長をしたい』と立候補してきました。その社員に任せたのですが、3店舗目を出した頃から売り上げが出なくなりました。当時社長に就任した社員が、心の底からビジネスモデルの違いを理解していなかったんです。ナサホームはお客さんの要望を聞き、オーダーメイドのリフォームを請け負っていましたが、みずらぼはそうではない。にも関わらず、コンサル営業をしていたんです。見積もりを出しても大手にどんどんお客さんを取られてしまう。」
売り上げが立たなくなり、なんと6年間で1億円の赤字になってしまいました。
江川さん
「最初は社員の意思を尊重して口を出さないようにしていましたが、だんだん口を出すようになりましたね…。なかなか意見が合わず、最終的には責任者を変えました。もちろん責任者を変えることには抵抗がありました。立ち上げた彼に任せたかったですが、みずらぼをよくするためには仕方がない。そう思って新しい責任者に交代したのですが、交代後すぐ一か月の売り上げが1.5倍になりました。コンサル営業からスピード重視の営業、運営にしたことが要因ですね。」
徹底したオペレーション改革と金型づくりによってみずらぼは改善しましたが、一番大切なのは「何のために立ち上げたのか」ということへの理解だと江川さんは言います。
江川さん
「みずらぼは本来何のために創ったのか、ということと、ビジネスモデルを責任者が理解していなかったから営業も理解していなかった。責任者を変えることで会社の売り上げは回復しましたが、社員の中にはコンサル営業からスピード営業に変わったことを『儲け主義になった』と言ってやめていった人もいました。その点に関してはやめた社員の理解が足りなかったのだろうと感じていますが、より顧客のために、というコンサル営業からスピード営業に変わったことはその社員にはそう映ったんでしょうね。」
ビジネスモデルの理解が足りていなかった…。そういう点で、改めて金型をしっかり創り、そこからは店舗を拡大していったといいます。
大坂塾長との出会い
みずらぼの売り上げが出なくなったころ、江川さんと大坂さんは出会ったといいます。そのころの印象はどうだったのでしょうか。
大坂さん
「江川さんはイケイケムードの時だったような。どんどん出店しようしていた頃?」
江川さん
「そうだと思います。」
大坂さん
「その時は『出店を一回止めたら終わる』と江川さんが言っていたように思います。僕からは『金型をしっかり作る』というような話をしました。
その頃江川さんは上場も目指していて、応援したい気持ちはあったんですが、とにかく早いかな、と思いました。そういう意見を言うと、大体の社長は聞く耳を持たないんですが、金型をしっかりしてから出店しなさいという話をしたら実際に行動して、自分としてはすごく手ごたえを感じましたね。」
ここで上場のお話。
江川さん
「当時上場をしようか、となったとき創立メンバーの中には上場企業に勤めたことのある人なんて一人もいなくて、管理本部や経営企画室に外部からの優秀な人材を入れなくては、と考えていたのですが、大坂さんからは『外部の人間は入れるな』と言われました。“渡り鳥”を入れてはいけないと。けれど入れました(笑)。本当に優秀な人材を入れたので、何も問題ないなと思っていたのですが、半年すると、朝目が覚めてから『あぁ、あいつらに会わなあかんのか…』と憂鬱になりました。」
いわく、「心が通っていない」ことがその要因だったと江川さんは言います。
江川さん
「業績が少しうまくいっていなくて、『そんなんじゃ上場なんてできへんで』と無言で言われているような気がしたんです。勝手な想像ではありましたが。大坂さんにそのことをいうと『ざまあみろ』といった様子でした(笑)
けれど思うのが、やはり失敗しないとわからないんです。崖から落ちるほどの大ケガだと取り返せませんが、事前にいろいろなことを言われていたので、つまずくだけで止めれたのは本当によかったです。」
約15%の離職率…。200名の壁…。
ここで現在江川さんが直面している社員数の壁についてお話くださいました。
江川さん
「新卒を20名ほど雇用して社員数が230人くらいになっても、その後中途で勤めていた人が辞めていってしまうので、実質今は210人くらいを行ったり来たりしている状況です。以前は胸を張って『うちが成功しているのは人が辞めないからです。』と言えていたんですが、人が増えてくると自分が知らないところで問題があったりして、それが離職につながってしまっています。各拠点間の自浄能力もなくなっていき、採用難でもあり、数か月前から『人を雇う努力』ではなく『人を辞めさせない努力』に変えました。」
特別顧問として、そして大坂塾の塾生として、江川さんは大坂さんのすごさをこのようにお話ししました。
江川さん
「大坂さんのすごいところは、やはり社員教育なんです。社員の資格保有率が同業他社が10%前後に比べて、大坂さんの会社は50%~60%にまでなるんです。すべてにおいて徹底しています。私も、社員に対して魅力のある会社にしていきたいなと思います。」
最後に、大坂さんからお言葉をいただきました。
大坂さん
「全国に多くの塾生がいますが、みんな遠回りをしている印象ですね。かつての私もそうでした。そしていつの間にか年を取ってしまって…。
すごくもったいないと思いました。自分たちの塾生には、私のすべてのノウハウを教えますので、遠回りをせずに行ってほしいです。
また、社員教育や出店のスピード、そして会社の経営理念も含めて、一度総棚卸してみてください。そして五カ年計画などにきちんと落とし込んでください。オリンピックの金メダリストも成功までの工程表をきちんと作っています。そこになんとか皆さんにはたどり着いてほしいと思います。」
一時間半という短い時間ではありましたが、本当に濃密で勉強になるイベントでした。
billage OSAKAではこれからもこのようなイベントを随時開催します!