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ユダヤ人と映画 巻1:反ユダヤ主義の嵐の中で 福井 次郎 (著)

[商品について]
―映画とユダヤ人の関わりを解明する、映画を学ぶ者必読の書―
映画が世界共有の芸術として成長を遂げた今でも、ユダヤという視座なしに映画を語ることは、映画に対する重要な知見が欠落しているとしか言いようがない。本書は、それほどまでに深く映画に関わってきたユダヤ人にスポットをあて、第二次大戦までの時間軸の中で、映画の歴史だけでなくユダヤ人の歴史や作家論にも言及しながら、映画を通じてユダヤ人がいかに反ユダヤ主義と戦ったか、そして映画を通じてユダヤ人がいかに自己実現を果たしてきたかについて論じた作品である。映画によってユダヤ人の歴史を知り、またユダヤ人の歴史を辿りながら映画の歴史を知る一書として、示唆に富む内容となっている。

[出版社からのコメント]
欧米の歴史を知るうえというでユダヤ人は不可欠の存在であるといえますが、本書はそれを映画というエンターテインメントの歴史の中で試みた作品です。映画が人によって生み出される限り、その時代性を免れることはできないという事実を胸に、ぜひ本書を通じてこれまでとは異なる目線で映画を楽しむきっかけを持っていただければ嬉しく思います。

[著者略歴]
福井 次郎(ふくい・じろう)
1955年青森県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。ユダヤ人と映画の関わりについて精力的に研究、映画を歴史と関連づけて論ずる独自のエクリチュールを確立し、多方面にわたって執筆活動を展開。

著書『戦争映画が教えてくれる現代史の読み方』(言視舎) 他。

はじめに

 

歴史というものは見返せば茫漠とした砂山のようなものである。ただそこには無数の事実が積み重なっているに過ぎない。例えば、過去に製作されたハリウッド映画をただ並べてみたとしても、そこには何のストーリーも見えてこない。ところが、積み上がった砂に何かしらの磁石を近づけて歩いてみると、そこに一つのストーリーが浮き上がってくる。例えば銀幕のスターという磁石と、B級映画という異なった磁石でハリウッド映画を眺めてみると、そこには全く別の世界が見えてくる。実際映画ファンというものは、各人が各様の磁石で映画を鑑賞しているものなのである。そうでなければこの膨大な映画の海の中で溺れてしまうだろう。そこで私は、今回ユダヤという磁石を使って映画の歴史を展望してみることにした。それというのも、映画の歴史にとって、ユダヤ人というのは決定的な役割を果たしてきた民族だからである。

一九八五年に出版されたC・E・シルバーマンの「アメリカのユダヤ人」(サイマル出版)には、政治科学者のスタンレー・ロスマンとS・ロバート・リヒターの研究として、アメリカの映画産業エリート、五人中三人以上はユダヤ人であると記されている。これはおそらく五十年代のハリウッドのことを指しているのだと思われるが、実際その頃までは、ハリウッドではユダヤ人が数多く働いていた。

と言うよりも、その頃までのハリウッドの歴史というのは、とりもなおさずアメリカのユダヤ人の歴史であることは、一つの常識として語られてきたのである。特にハリウッドのメジャーの創業者のほとんどがユダヤ人であったという話はあまりに有名な話だ。

と、このようなことを書けば、「そんなことは誰でも知っている。それを書いてどうなるのか」という批判が聞こえてきそうである。確かにその通りかも知れない。

しかし、私が以前から感じ続けてきた映画を鑑賞する上でのユダヤ的視座の不可欠性については、決定的な証拠を掴んでいない段階では、やはり漠然とした感触に留まるものであった。我々はその漠然とした感触を既成事実として受け止め、その検証を怠ってきたのだ。

この反対に、ユダヤ人と映画の関係を余りに強調することはナンセンスであるとする意見もある。実際映画の発明者エジソンはユダヤ人ではなかったし、最初のアメリカ映画を作ったエドウィン・S・ポーターも、アメリカ映画の父と言われるグリフィスもユダヤ人ではない。またアメリカ映画の魂ともいうべきジョン・フォードはアイリッシュであり、フランク・キャプラはシチリア移民、そしてディズニーにいたってはユダヤ人嫌いで通っていた。

また、いわゆるハリウッドの銀幕スターのほとんどがユダヤ系ではないことも事実だ。ヴァレンティノはイタリア、バーグマンはスウェーデン、ジョン・ウェインはアイルランドである。もともとアメリカは他民族国家なのだからユダヤ人にだけ拘って映画を見ても意味がないと言う訳だ。

それに加え、近年の映画界のボーダーレス化は著しいものがあり、映画に国境がない時代が到来した。最近では、中国人の監督がアメリカ資本でイギリス映画を作るといったことが普通に行われており、イラン、トルコ、インドに南米と、世界中の映画が上映される時代となった。さらにはアメリカにおいてもハリウッドの比重は低下し、インデペンツを中心に、黒人やチャイニーズ、そしてヒスパニックの台頭が著しいものがあるのも確かだ。このように、映画が世界共有の芸術として成長を遂げた今、ハリウッド中心の、しかもユダヤ系に光を当てて映画を論ずるというのは無意味なことかも知れない。

にもかかわらず、やはりユダヤという視座なしに映画を語ることは、映画に対する重要な知見が欠落しているとしか言いようがないのである。それほどにユダヤ人は深く映画に関わってきた。そしてそれを明らかにするのが本書の第一の目論見である。

 

もとより映画ファンは、映画をサスペンスやミュージカル、SFやアクションといったカテゴリーに分類したり、好きな作家や俳優の作品をひとまとめにしたりして楽しんできた。また戦前のドイツ映画やフランス映画、戦後のイタリア映画やポーランド映画という風に、ある時代の国民映画を一つのジャンルとして鑑賞してきた。いつの時代にも強烈な光を放つ国民映画が存在し、それを鑑賞する映画ファンが存在したのだ。ところが、ユダヤ人と映画の関わりについては、昔からその深い関係が喧伝されてきたにもかかわらず、ユダヤ映画史は日本で出版された例がなく、ユダヤ映画という名の上映会が開かれた例もないのである(私の知る限りの話だが)。

もっとも、いざそうした企画を立案しようとすると、一体どのような組立てで映画を上映すべきか頭を悩ますことであろう。というのも、ユダヤ人というのは表面上自分がユダヤ人であることを隠して生きているからである。誰がユダヤ系で誰がそうでないかを調べるだけで何年もかかってしまう。読者の多くはスピルバーグやウッディ・アレンがユダヤ系であることは知っていると思う。しかしジガ・ヴェルトフがユダヤ人だったことを知る人はほとんどいないのではなかろうか。ましてやジャン・ルノワールがユダヤ系である可能性があるなどと言えば、多くの人からお叱りを受けるだろう。しかしこの本では意外なユダヤ人が次から次に登場する。

確かにこの本には多くのユダヤ人の名前が登場する。文体を犠牲にしてまでユダヤ系の人物の略歴を記しているのも事実だ。しかしそれをしないと、論証そのものが成り立たなくなるのでそうしているのである。あくまでこの本の狙いは、映画によってユダヤ人の歴史を知り、またユダヤ人の歴史を辿りながら映画の歴史を知ることを目指している。

 

組立からいくと、初めはあくまで作品批評によって本を構成しようと考えたが、筆者の思惑通りにはいかなかった。書き進むうちに、ユダヤ人の歴史や作家論、映画史や世界史にも筆が飛び、その記述は広範囲に及んでしまった。そして全体の構成としては、時間順にそって、映画の歴史を見ていくことが一番良いと判断するに至った。

それにしても、この本の扱う範囲は極めて広いため、初めのうち、読者は困惑するかも知れない。特に序章から三章までは映画よりもユダヤ人の歴史のことに多く紙面を割いたため、これが映画の本なのか、それともユダヤ史の本なのか解らなくなる可能性がある。しかしこの歴史を押さえておかないと、後で映画の歴史も正しく認識できないことになるのである。導入の長さに辟易する人も多いと思うが、間違いなくこの本は映画の本なので、我慢して読み進んでもらえればと願うのみである。もし映画にしか興味がないのであれば、第四章から読み始めても良いのだが、しかしそうなると、今度は反ユダヤ主義に関する重要な視座が欠落することになる。くどいようだが、是非とも最初から読んでいただければと考えている。

ともあれ、この本によって明らかとなることは以下の二点であろう。

一、映画を通じてユダヤ人がいかに反ユダヤ主義と戦ったか。

二、映画を通じてユダヤ人がいかに自己実現を果たしてきたか。

第一の点について言えば、ちょうど映画が誕生した十九世紀、ヨーロッパでは巨大な反ユダヤ主義の運動が胎動している時期だった。これはフランスから始まり、ロシアに飛び火し、ドイツで爆発するが、その余燼がアメリカで燻った。このうねりに抗うように、映画はそれぞれの時代に反ユダヤ主義との戦いを継続してきた。作品によって反ユダヤ主義を糾弾するというのもその一つだが、何よりも映画産業が迫害されるユダヤ人のシェルターとなったということが大きい。つまりハリウッドという本陣があって、始めて戦いが可能となったのだ。しかしこの戦いの最後に、その本陣が深い傷を負うことになる。それがマッカーシズムの嵐だ。だが、この本は、構成の都合上第二次大戦前でいったん幕を降ろすことになる。その続きは別な機会に譲ることになろう。

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