#8-2 「山」の話 山さ行くときはナタ持って
「山」の話
上綾織では、猿ヶ石川支流の山谷川によって開析された谷地形に、集落と山、その山上にある野馬土手までが人々の生活と生業の舞台となり、地域景観に直結する文化的景観の一部を構成しています。農家の営みとワンセットに存在する山の中でも、特に緩勾配の斜面地は、かつて、ミズナラ、コナラ、トチノキ、サイカチなど落葉広葉樹の雑木林や馬の放牧地、採草地として生活や生業のために利用されていました。1960年代以降、これらの斜面地の多くは杉などの植林地に置き換わり、これまでの生活・生業と山の関係性は薄れています。
現在、一見すると一塊の「緑の山」と認識される山も、地域の方々へのヒアリングと現地踏査、地歴・植生調査を通じて、かつては茅場、採草地、ホップ畑、カラマツ林、杉林であった場所の存在が徐々に明らかになってきました。これらは、パッチワーク状に山の斜面地に分布しており、現在の私たちにとって、地域の生業や民家の建材の資料館とも言えます。それらを通して、民家と山の関係性は密接なものであり、高次の利用実態がそこにはあったと想像できます。
また、必ずしも民家敷地と隣接するものばかりではなく、いくつかの地割を越えて存在するものもあります。いわば、地理・地勢に基づくきめ細かな土地利用がなされていた様子を垣間見ることができます。現段階では調査中ですが、この数十年以内に整備された林道とは異なり、毛細血管のように山環境を巡る経路である山道の存在も明らかになりつつあります。これらの幅員は馬一頭が歩ける程度の狭い小径で、斜面地を直行するようなルートもあります。かつては山で切り出した杉などを馬につないで運ぶ「地駄曳きの径」であったとも推察されます。現在もこれらの小径は、早春にワラビなどの山菜を採りに行くために使われているようです。
2019年度のオフキャンパスでは、地元の方々の案内で山の一部を巡ることができました。そこでは地駄曳きの径や死んだ馬の墓場など、馬と暮らす遠野の文化の痕跡に触れることができました。山には新旧の空間が積層してできた「時層空間」が形成されています。こうした場所を巡ること自体が魅力的な空間体験となり、潜在的な地域観光資源としても評価することができるかもしれません。今後、さらなる詳細調査を通じて、民家と背景に広がる山の関係や、上綾織固有の景観構造について考察していきます。 (文・霜田亮祐)
山さ行くときはナタ持って
照井文雄さん(重文千葉家の活用を考える会)
昔は綾織町だけで2,000頭の馬がいたんです。どこで飼ってたかというと、野山で放牧だ。だから、ほとんど採草地です。野山だと茅とか雑草を焼くわけですよ、春先に。地域の人たちでね。隣の山さ火が行かねえようにするのが火防線といって、野馬土手のこと。馬を止めるだけじゃなくて、野焼きの火を止めるの。火防線から向こうは村が違うから、そっちに火が行ったら大変なことになるから。
その後に生えてくるのが、ワラビとかウド。山菜が生えてくる。それは人間が食べます。その後、茅が生えてきて、茅は茅葺きで屋根の材料になりますし、茅の周りに今度は萩だ。萩を刈る作業があって、それを家の周りに干して冬場の餌にするわけ。そのサイクルだ。だから無駄なところはひとつもない。
だけど、馬を利用しなくなったでしょう。馬が山に行かないし、萩を刈る人もいなくなった。それで、土砂災害が起こらないようにと、国の営林署が「植林しなさい」といって成長の速いカラマツとか杉を植えた。それから南部赤松。これは脂分が多くて水に強いと。岩手から、名古屋城に使う赤松1本売りました。300年経った赤松ね。木はですね、だいたい成長した年月と同じぐらいもつと言われています。300年かけて育った木を使えば、300年もつわけですよ。それと、隣の家の境に違う品種の木を植えてるな。カラマツが多いな。成長が違うから境がわかったんです。例えば5年とか10年とか離して植えると全然成長が違うので境がわかるわけだ。山からの景色も前はもっと向こうが見えたけど、いまはどんどん木が繁って見えなくなった。
春先はワラビをね、直径2mぐらいの樽で買う人がいて、そこさ持っていくと一把600円ぐらいで売れたの。その家の人たちはワラビを塩漬けして、それを業者が回収していくの。朝間に一把採ってきて600円で売って、お小遣いもらうの。EP盤のレコードが1枚600円だったから、一日ワラビ採りすればレコードが買えるの。時代です。ははは。