#1-1 三田屋の暮らし
おかみさんに聞きました!
三田屋さんで50年にわたって商売を切盛りされてきた菊池洋子さんに、昔の町家での商いや暮らしの様子を伺いました。
ーもともと遠野市のご出身だったのですか?
私の生まれは陸前高田です。お見合いで結婚しまして、昭和33年の11月に三田屋に参りました。
ーご結婚当時のお店の様子を教えてください
当時は、17歳から勤めた番頭が一人。店員たちが10名。店員はみんな住み込みでした。店員が10人いたところに、11人目として私が来たようなものですから「私がいちばん新しい、新参者だ」という気持ちで、いろいろ先輩たちに教わりながら仕事を覚えていきました。
ー当時の生活はどのようなものだったのでしょう?
朝は6時半に起きまして、まずもって全体のお掃除。それから、7時頃ご飯を食べて、すぐに店に出る。開店は8時頃でしたね。そして、夜は8時に閉店です。当時は、お常居の上に三田屋の紋がついた「高張提灯」を入れる箱が10個並んでいました。夜は提灯で足下を照らしてお客さんを家まで送り届けていました。お客さんの家を覚えることも大事な仕事だったんですね。
ー閉店後はどのように過ごされていましたか?
夜8時に店を閉めたら、おやつを食べて店員さんは9時頃には布団に入っていました。早いですね。冬はこたつで足を温めてから休むの。私は、その後、主人と明日の打ち合わせをしたり、縫い物をしたり、そんな風に過ごしていました。
ー大きなショーウィンドウが印象的ですが、どのような設えをされていたのでしょうか?
お店のショーウィンドウでは、季節ごとにお花を生けたり、着物を飾ったりもしておりました。たとえば「お祭りがくるな」といえば、大体10日前くらいですね。そういうときは半纏類やお祭りに関したものを飾るの。そしてお祭りが終わる前に、「次に飾るものは何にしよう?」ということをね、次々と考えて、心で準備しておくわけですね。それはいま引っ越した先でも続けております。自宅に大きなウィンドウがありまして、先日は敬老の日だったので、「敬老らしいものを」と大正時代のものなんですけど、土でできた翁と媼の人形などを飾りました。
ー冬はどのように過ごされていましたか?
冬は寒いですから、売場に火鉢がいっぱいあったんです。その火鉢が大きくもないんですが、瀬戸物でね、蔵から出して火を起こして持ってくるんですよ。だから、お勝手の人たちは大変だったですね。ここに火鉢を持ってきて、お客さんが来ると、手をあぶりながら腰掛けて商談をして、売ったり買ったりという感じにしていました。
(2012年9月23日三田屋店舗にて)
街の人にとっての三田屋
かつては多くの人で賑わっていたという三田屋さん。どんなふうに賑わっていたのか、街の人に聞いてみました。そこからはかつての三田屋さんの特別な存在感や一日市の昔の暮らしの様子が浮かんできます。
「何かあると三田屋さんに行けばひととおり揃いました。肌着類はもちろん靴下のようなものも足袋のようなものも着物のいろいろな小物類も一式揃って。奥さんがちゃんと見立ててお世話して見繕ってくださるのがよかったですね」 松田和子さん(まつだ松林堂)
「私らの子供のころは、悪いことをやっていれば、どこの子であってもわが子のようにすぐに叱られるし、どんなに隠れて悪いことをしても必ず家には伝わってました(笑)」 松田惠市さん(まつだ松林堂)
「お庭には遠野で一番先に咲く桜があったんですよ。そこの桜が咲きはじめると、いつも私らは「そろそろ遠野中の桜が咲くな」と思ったものです。その桜ももうなくなったんで、さみしいんです」 菅井良子さん(スガイ)
「商品のお届けは必ず三田屋さんのマークが入った風呂敷で包んで背負って配達する。布団も担いで、何人も行列してました。みんな女性で、歩いての配達が多かったと思います」 船越久子さん(遠野町第5区)
「お庭は燈篭があったり、石を組んでいて見事でした。お稲荷さんを祀って、ご縁日も三田屋さんはきちんと守っておられて、町家の習わしをずっと守ってこられたお家でした」 似田貝好志さん(遠野オートセンター)
「明治24年に一日市通りで大火があったんだね。この辺り一帯全部焼けたの。いまの三田屋さんは、その後、明治33年に再建されたそうだね。蔵は火をかぶったけど運よく残ったそうです」 松田克之さん(遠野町第5区長)
「遠野は内陸と沿岸を結ぶ交易の場所ですから「一日市通り」、「一」のつく日に市場がたてられて、うんと栄えたのね。通りに水路があって、そこに馬を休ませてね、向こう側に渡るときに、馬の股をくぐるか、荷物の上をよじ登るくらい、もうほんとすごかった。八幡のお祭り、あんなもんじゃなかったなぁ」 菅沼秀章さん(遠野町第5区)
「三田屋さんでも裏のところに馬をつなぐところがありまして、お得意さんを休ませたり、おもてなしをしたりしたそうです。普段はジャガイモ汁とか大根汁でしたけど、馬市のときは、お客様のために、豆腐汁をつくる。それが楽しみだったと。お豆腐はその当時、貴重でした。ましてや出来たての豆腐一丁、お醤油をかけて食べられるなんて、ごちそうでした」 松田和子さん(まつだ松林堂)
「何か悩みがあると「奥さんとこ行くべ」という感じでね、いろんな話をしに行ってました」 泉澤和子さん(遠野町第5区)
「名前の由来は、江戸時代でしたか、男の兄弟で「太」のつく兄弟が3人いたそうです。三田屋はいま田んぼの「田」だけども、「太」だったんですね。三太屋兄弟商会といっておりました。いまだったら百貨店なんて言いますが、当時はなんでもやってたんですね。呉服もやりながら、そっちの方では魚屋もやってたらしいんですよ」 菊池秀智さん(一日市南部ばやし保存会 会長)
建物としての三田屋ーー実測から見えてきたこと
安宅研太郎/建築家
三田屋は明治33年に建てられた、一日市通りに並ぶ商家の中でも大きな町家のひとつです。通りに面した2階建ての店舗と、奥に延びる住居がL字型に連結しており、いわば町の曲り家と呼べそうな構成になっています。
店舗から延びる「通り土間」のような空間は現在は屋内化されていますが、縁の室内側に雨戸があることや、外側のガラス戸の取り付き方から、もともとは半屋外の縁側空間だったと推測しています。これは京都や盛岡の屋内化された「通り土間」をもつ町家とは異なった造りです。そして畳のサイズは1910×955mmで、これは京間のモジュールに近い。いったい遠野の町家のルーツはどういったものなのか!? それを探るのも今後の楽しみとなりました。
遠野の中心市街地は、旅行者のパッと見にはそれほど古い街並みという印象を受けませんが、実は明治や大正期の建物を新建材で覆ったものが多いと聞きます。
今は開発を行っていなければいけないほど、街の価値が高い時代で、そういった建物は地域資源としてみればとても得難い価値のある建物です。新しい時代に取り付けたものを丁寧に取り外し、最低限の改修を行うこと。またその空間を活かした活動を考えること。そのふたつが重なると街の魅力はすごく高まると思います。
ここ10年ほどでもたくさんの古い建物が解体されたと聞きますが、一度失われれば二度と戻すことはできない大切な地域資源を、なんとか活かす道を探りたいと思います。
実測班の声 東京の大学生から見た三田屋さん
「台所とキッチンの断面図を描いています。天井が高く吹き抜けていて、大事な空間だと感じています。内と外の中間のような感じが魅力的です。柱ひとつ見ても、年月を経た古材には、新しくつくった建物にはない歴史を感じます。それがまたひとつの魅力だと思います」 林浩平さん(東京藝術大学大学院修士1年)
「店舗部分の平面図を描いています。建物全体が微妙に歪んでいるので、店舗と住居の取付部分を実測して描くのが難しいです。こういう活動をたくさんの町の人たちが見て、興味を持ってくれて、いろいろなアイデアが集まってきたら面白いなと思います」 津布久遊さん(東京藝術大学大学院修士2年)
調査活動を終えてーーメディア班の声
2日間にわたって行った町家調査では、実測版とメディア班のふたつのグループで活動した。調査にあたって、実測班だけではなく、メディア班を設けたのにはふたつの理由がある。ひとつは、この活動をより多くの人に伝えるため。もうひとつは、学生自身が取材を通じて遠野の魅力を再発見し、街への愛着を育むためである。メディア班には、遠野高校から4名の学生が参加した。
実際のインタビューでは、ふたつのグループに分かれ、質問をする人と撮影をする人とに役割分担をした。取材対象は、実測と野帳を記録する大学生、遠野高校の学生たち、そして婦人会・老人会・青年部の方々に三田屋に関する思い出話を伺った。
初めて会う人に質問をするなど、最初は戸惑いも見られたが、質問をいくつか用意しておくこと、回数を重ねることによって徐々に自然と会話を成り立たせることができるようになった。ワークショップ後、参加した遠野高校2年生の萩野友里恵さんは「かつてこの一日市がにぎわっていたという痕跡をたくさん見つけられたのが嬉しかった。古くから住んでいる人の強い思いを汲んで、若い人たちに引き継いでいく……それが私の理想だと思いました」と語った。