#8-5 オフキャンパス はじまりの場所
「三田屋オフキャンパス」の足跡と未来
2012年2月、遠野をリサーチしていた造園家の田瀬理夫さんと大学生が、もうすぐ解体されるという町家「三田屋」に出会いました。その時「農家としての千葉家の曲り家に匹敵する、もしくは相当する三田屋の建物、敷地の構成、たたずまいは、遠野の町中においても群を抜いた存在だろう」と直感し、すぐに市長に手紙を書きました。そして、三田屋を残していく道を探ること、町中にさまざまな大学や研究機関がリサーチを行う(=オフキャンパス)集合体(=大学のようなもの)をつくることを伝えました。
その後、市が対応され、三田屋の保存と活用の道を探ることになりました。私はこの段階から参加しましたが、はじめは図面も何もない状態です。まずは実測が必要となり、建築家とともに、都心で建築を学ぶ学生や遠野の高校生が実測をするプログラムを企画し、自ら講師となりました。 実測は、プロが行えばただの「仕事」で終わってしまいますが、たくさんの人が関わるプロジェクトにすれば、そこに教育的な意味や、まちづくりとしての意味合い、文化的なリサーチの蓄積、地域の方と外から来たメンバーの人的交流など、さまざまな側面の効果があるのではないかという仮説を立て、実施しました。これが「遠野オフキャンパス」の始まりでした。
それから約7年に渡り、毎年数日間のプログラムを開催してきました。建物の架構の調査と図面化、店舗部分や住居部分の修繕や修復、簡易な改修、遺跡調査の手法に則った裏庭の痕跡調査などです。また、三田屋にとどまらず、町の成り立ち、町内の他の町家や町並み、生業の調査なども継続してきました。その成果は多岐に及んだと思います。改修を通して、ぱっと見には廃屋のようだった店舗や住居を、かつての町家の文化を体現した残すべき空間であるという認識に変えたこと。地域の方の使用にとどまらない、多世代の多様な活動を許容する場となり、そういったものが町中に必要であると認識されたこと。かつて三田屋以外にも立派な庭園と水の流れがあり、誇らしい生活文化が思い出されたこと。街区の中にあった垣根のないコミュニティの場が思い出されたこと。三田屋にとどまらず、遠野の町家に共通する「遠野町家」の特徴が見えてきたこと。
三田屋自体は、八間間口という遠野の商家でもひときわ大きい町家で、2室の常居を備え、ロウジの室内化の変遷を辿ることができる貴重な町家です。またガラス戸の連続によって道路に開いており、中の活動の様子が外から見えることも、他にない価値を生んでいます。
これまでたくさんの方に、三田屋や一日市通り、遠野の町場の暮らしについてインタビューをしてきました。その多くは文字に起こし資料化しています。私たちはその会話の中に登場する「ふつう」の日常そのものが、土地固有の文化を宿しており、とても価値があると感じてきました。ぜひこの資料を地域の方や、今後遠野で活動される方がアクセスできるものにしておきたいと思います。
また私たちは、これまで詳細に調査した資料をもとに、伝統的な建築物が本来持っている耐震上有効な要素を評価できる「限界耐力計算」という高度な検証を行い、三田屋の住居部分はそもそも構造的に問題がなく解体の必要がないことを確認しました。一方、店舗部分に関してはかなり改造されているので、解体再建が必要だと判断しています。それらのことに留意して今後の活用や設計を検討していけば、多額のコストをかけなくても、三田屋を未来につないでいけると考えています。そしてその知見が、遠野の他の古い建物にも活かせれば、地域固有の文化や環境を大切に継承する遠野の環境形成に非常に有益だと考えています。2019年11月に、三田屋を「こども本の森(仮称)」にするという計画が発表されました。この計画に私たちは関係していませんが、ぜひ蓄積された知見が活かされ、町場の文化や暮らしを次世代に伝えられる空間として残していってほしいと願っています。
三田屋オフキャンパスは「三田屋」だけを対象にしていたのではなく、活動を通して町場に育まれた環境や文化、暮らしを対象に見据え、その継承や未来を一緒に考えていきたいと考えてきました。これからも変わらぬ姿勢で活動を続けていきたいと思います。
(文・安宅研太郎)